執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

1月1日から日本経済新聞の「私の履歴書」にアサヒビールの元社長の樋口廣太郎さんが登場した。1986年、住友銀行副頭取からどん底だったアサヒビールに単身乗り込んで経営を立ち直らせた人だけに、なかなか読ませる。

当時の磯田一郎頭取とそりが合わずに住友銀行を飛び出したのだが、仮に銀行に残って頭取にでもなっていたなら「スーパードライ」は生まれなかっただろうし、アサヒビールという会社だって存在していたかどうか分からない。それよりも樋口さん自身がバブルの後始末で銀行の経営責任を取らされていたかもしれない。

「人間万事塞翁が馬」という中国の格言をこれほど地で行った人生に出会ったことはない。

●缶コーヒーつくりの代わりに命じた草取り

「履歴書」は連載中だからこれからいくつもヤマ場があるかもしれないが、前半の圧巻は7日付(6)「筋違いの要求は拒否-専用食堂など特権認めず」と題した労働組合との対決場面だ。

当時のアサヒビール本社には社員食堂の隣に組合幹部専用の食堂があって、社員が行列をして食事をするそのすぐ横で組合幹部だけはゆったりと食事をしていた。これに頭に来た樋口さんは秘書に入り口のドアを蹴破らせ「みんな行列しているのに、のうのうと食事をしているとは何事か」と一喝。ただちに社員にその場を開放した。なんともスカッとする逸話である。

また缶コーヒーをつくっていた柏工場では、コーヒーが売れて品不足になっているにもかかわらず、社員は終業時間の30分前から帰り支度を始めていた。「職場に戻るように」と言ったら「帰れ」の怒号が返ってきた。樋口さんはここではウィットで切り返した。「工場は動かさなくていい。解雇はしないから」と言い放ち、缶コーヒー製造のかわりの仕事として「草取り」を命じた。「草はあとからあとからはえてくるので仕事は永久にある」といったら一週間で音を上げたという話である。

かつての国鉄をみての通り、傾きかけた企業には必ずといっていいほど労働組合が君臨していて、経営側が組合幹部にペコペコしている状況がある。緊張を失った労使関係は組織をだめにするという好例がかつてのアサヒビールにあった。現在の日本社会全体に当てはまるのではないかと思う。

●さわやかな印象を与えたキリン佐藤社長の退任

同じビール業界でこの15日さわやかなトップ交代があった。キリンビールの佐藤安弘社長が会長に退いて後継に荒蒔康一郎専務を昇格させる人事だ。佐藤さんは任期たった4年で社長の座を下り、後任には医薬事業というまったく違う畑の人材を登用した。

佐藤氏の在任中、キリンの「ラガー」はアサヒビールの「スーパードライ」にビールのトップシェアの地位を奪われた。ラガーの長期低迷に歯止めが掛けられなかったことに悔しさは残るだろう。しかし発泡酒「淡麗」を世に出して、会社が元気を取り戻した。この功績は小さくない。業界最大手のキリンが「ビールもどき」と揶揄された発泡酒の販売に踏み切るには相当の覚悟があったはずだ。佐藤氏はキリンの本流の営業畑ではなく、総務畑だった。保守本流を歩まなかたからこそできた決断だったに違いない。

佐藤さんが常務だったころにあるパーティーで一度お会いした。むろん佐藤さんが覚えているはずもない。そのころ輸入ビールの攻勢でビールの価格破壊が話題になっており、内外価格差も大きな社会問題だった。筆者は日本の缶ビールの出荷価格の3分の1がアルミ缶代だという問題を取材していた。

アメリカの缶が3-5円で日本製が20円弱。アルミ缶を輸入すれば利益は何倍にもなることは誰もが確信していたが、ビール会社はどこもそのことになると口をつぐんだ。佐藤さんだけは違っていた。日本のビール会社が抱える問題点をあっけらかんと語った。そんな佐藤さんが4年前社長に抜擢されたから、キリンビールは変わるだろうと考えた。案の定、殿様企業から商売人に一変した。

社長というのは社外でどんなにぼんくらといわれようが、いったん上り詰めれば絶対権力者となる。そして長期間その座にあれば、どんなに評判の良かった人でもぼろが出てくる。苦言を呈する人は自然と退けられ、社長室はやがてイエスマンに囲まれた楽園になる。佐藤さんは社長室が楽園になる前に住み心地の良かっただろうその部屋を退室し、取り巻きから後継者を選ばなかったからさわやかなのだ。

ちなみに樋口さんはアサヒビールの経営を軌道に乗せて4年で社長を辞めることを決めていた。事情があって6年半の任期となったが、当初方針通り、生え抜きの瀬戸雄三氏を後継者に選んだ。会長になってからは後継者がやりにくいからと言って本社に部屋を求めず、東京支社に会長室を置いた。