共同執筆者:大友賢&園田義明

「持続可能な開発」という概念は1987年の国連ブルントラント委員会(環境と開発に関する世界委員会)の報告書”Our CommonFuture”の中で打ち出されました。1992年の地球サミットでこの概念が世界が目指すべき目標として採択され今日に至っています。ここでそれまでの経済成長一辺倒から人間と自然の共生できる経済へというパラダイムの転換が行われたことになります。

環境問題は1960年代から1970年代にかけて主に先進国を中心に議論が高まりました。しかし1980年代半ば以後は途上国問題を含めた形で地球規模の問題として認識されるようになります。そして「持続可能な開発」へとつながっていきます。

☆環境と思想
園田 このパラダイムの転換は世界的に見ても思想上かなり奇妙な変化をもたらします。それまで「成長か環境か」「開発か環境保全か」といった二元論で扱われる中で、思想上でも対立軸となっていました。極端な事例かもしれませんが、チェルノブイリ事故直後の反原発運動の高まりを振り返っても明らかであると思います。当時の産経新聞には「エコロジストはトマトだ」とする社説を掲載したことをよく覚えています。最初は「緑」だがすぐに「赤」になると主張しました。当時の社会状況を象徴する内容でしょう。つまり環境問題を取り上げること自体、反社会的、反企業的なものとみなされていたのです。私自身はこの記事で産経新聞の先見性に大きな疑問を感じて以来、この新聞を手にするのを控えてきました。この思想的な側面は日本だけに見られる特徴ではないはずです。国際関係に詳しい大友さんはどう思いますか?

大友 環境問題を思想的なベースをもとに捉えるために、リベラルとマルクス主義的思想の二つに大きく分けて考えてみようと思います。前者の場合、環境保全運動は、グローバルな視点で個人の権利を守る為の運動と捉えられるでしょう。これは別の言い方をすれば、カント的思想になると思います。つまり、人間が安全な環境で生きることを「権利」として認め、さらにはそれが普遍的な権利であるという主張になるわけです。後者の場合、環境問題のほとんどは先進資本主義国の手によって引き起こされていると論じます。人間の生活の中には必要最小限の環境破壊はあっても、それが必要以上に拡大していくのは資本主義経済のせいであり、さらには開発途上の国にまで環境汚染を輸出している(例えば、日本企業の工場が東南アジア諸国に移転され、汚水を垂れ流し煤煙を出しまくっている現状や、日本に輸出する為に森林を伐採している現状)ことを強く主張します。先進資本主義国による環境の搾取が行われているわけです。「持続可能な開発」というのは、この両者を満足させようとするスローガンであったように見えます

園田 時あたかも東西「冷戦」の終結に遭遇します。この結果、政治が多様化・多元化するなかで、ドイツ、フランスに見られるように「新しい政治」の担い手として環境主義が独立した思想として確立していきます。私自身はエコロジー運動の世界的広がりの要因として「持続可能な開発」の概念化と冷戦終結は密接につながっているように思います。冷戦終結によって環境主義のマルクス的色彩が薄められ、より中立な存在となった。時には政治的に利用されながらもユニバーサルに浸透していくような気がします。日本の場合、冷戦終結の歴史的な認識が希薄です。根本的に何が事実として起こったのかいまだに理解できていないところがあるように思えてなりません。日本では赤緑連合と揶揄されることも多いドイツ・シュレーダー政権ですが、試みとしては非常にユニークだと思います。原発廃止を巡る是非で混乱が続いているようですが、結果生み出されるものは21世紀に向けて極めて貴重なものになるように思います。

☆予測される自然観の対立

園田 ところで大友さん。日本では吉野川可動堰問題などのように一時的に盛り上がりはしますが、まだ環境主義が根付いていないように思います。これはどうも日本人の自然観によるところも大きいのではないかと思うのですがどうですか?現在の環境問題は西洋的な自然観が前提にあるように思います。このあたり私自身も抵抗を感じることがあります。温暖化問題にしても、何か人間のおごりのようなものが見隠れしているように思えてなりません。

大友 面白い視点だと思います。確かに、日本人にとって「自然」は「そこにあるもの」で、また「あるべきもの」であり、「あって当然なもの」なのかもしれません。歴史的には、それぞれの神が自然に宿していると考えていたことにも、この感覚が見られるように思います。その分、四季の移ろいには敏感でも、「自然」というもの自体には無頓着なように見えます。西洋的な感覚だとこうではないと思います。人間社会と自然を切り離して意識し、人間の力によって制御されるべき対象と捉えられてきた側面があるのではないでしょうか。特に、科学万能主義的な思想はこれを反映しているように思います。ですから、環境問題も人間がどうにかコントロールして、「人間が暮らしやすい」環境作りをしなくてはならないという人間中心的な発想になるのでしょうし、その考え方の度合いが日本人よりも強くなるのかもしれませんね。

園田 今朝子供と「お母さんと一緒」を見ていたら、♪小さい秋♪が流れていました。この曲って良く聞くと凄いですね。おそらく西洋人にはこの繊細さは理解できないでしょうね。同様に私の好きな言葉に「足るを知る」があります。今年1月の日経新聞で在日アメリカ商工会議所前会頭のグレン・フクシマ氏が、日本人の「もったいない精神はアメリカ人には理解できないだろう」と書いていました。私も「足るを知る」をアメリカ人に懸命に説明しようとしましたが、英語力の問題もあって見事に挫折した経験があります。この繊細な自然観は日本特有のものでしょうか?大友さんにお願いがあります。韓国に友人がたくさんいらっしゃるようですが彼らはどのような自然観を持っていますか? 年末に「神々が宿る島」バリ島に行く予定です。最近特に偏った主張が目立つようになってきました。日本人のアイデンティティーを見直す中で、この自然観の特殊性を殊更に強調しすぎるきらいにあります。極めて偏狭なナショナリズムではないかと心配しています。このままいくと自然観の対立からハンチントンの罠に陥りそうな気がします。

大友 私の印象に残っている曲に♪ふるさと♪があります。これは、長野オリンピックの閉会式で杏里さんが歌っていたのですが、彼女の歌唱力だけではなく、その歌詞に様々な季節の情景が(暗黙に)込められていることにふと気づいたわけです。これは、たまたまビデオに録画しておいたものだったので、何度も見返してしまいました。このように、日本の歌には様々な季節観が込められているものが多いのだと思います。

イギリスにいる時に、韓国人の友人と「この国には季節が無いね。」ということを話していたことがあります。このきっかけになったのは、私が秋が一番好きなのですが、イギリスの秋はちょっと物足りなく感じたためで、その時に感じたのは、彼らの季節観は日本人のものに近いなということでした。ただ、私は韓国語が分からない為、この感覚がどのように文学や歌に反映されているのかは分かりません。(この点に関しては知り合いのイギリス人が、イギリスの季節は「春から夏に変わったと思ったらすぐ秋になり(夏は無いと同じで)、秋が来たらすぐに冬になる(秋も冬も感覚的に差が無い)」と言っていました。)

日本人の季節観はやはり独特なのかもしれません。しかし、それを「外国人には理解できないもの」といった考え方になるのは、その人の心が偏狭である証拠でしょう。日本の文化を理解しようとしない外国人にとってはこの感覚は理解できないものでしょうが、日本人よりももっと日本人らしい外国人もいるわけですから。逆に、海外に出た日本人が「日本人はこうだからおまえらの考えは理解できない(または、理解しようとしない)」というのも、結局はこれを逆さにとった偏狭性の表れでしょうね。

このような考え方を日本国民の多くが持ち排他的な感覚になってゆくとしたら、ハンチントンの罠に陥ってゆく要因のひとつになるようにも感じられます。もし「日本人が自然をこよなく愛する民族だ」などと主張するならば、他の国の人たちにもその感覚を理解してもらう努力をしつつ、他の国の事情や文化も研究してどのように自然を守っていくかというような行動に出るべきでしょう。

☆環境と企業経営

大友 近年、日本企業では環境問題に取り組む姿勢が顕著になりましたが、ここには人々の意識の変革がそうさせた面と、企業の環境問題への取り組みがさらに人々の意識を変えていくという面との相乗効果があるのではないかと思うのです。もちろん、企業にとってはイメージアップの要因になっていることが重要ではあるわけですが、多国籍企業などは環境問題を人々に意識させるという点で「政府以外の意思決定機関」としての役割を果たしてきているように思うのです。このような企業の環境への取り組みに関しては園田さんの方が詳しくご存知でおられると思うので、その辺を具体的におっしゃっていただけますでしょうか?

園田 「地球に優しい」を呼ばれる自動車メーカーやOA機器メーカーとはこれまでに随分と一緒に仕事をさせていただきました。イメージアップという面は無視できないでしょうね。ただ現場段階で実際に研究開発に携わっている方々は相当ユニークな連中ですよ。しっかり信念を持って日夜地道に努力されています。

優秀な経営者ほど環境技術が日本にとって21世紀の生命線になることをしっかり認識しています。この点で基幹産業である自動車業界を例に取ってみましょう。

10月2日に米環境保護局が2001年型乗用車の燃費ランキングを発表しました。1位がホンダ・インサイト、2位がトヨタ・プリウスでともに日本のハイブリット車です。6位にホンダ・シビックHX(マニュアルタイプ)、7位にスズキ・スイフトが入っており、トップ10は日本車と独フォルクスワーゲン社の乗用車が占めました。特にホンダは2年連続で最優秀燃費車に選ばれたことになります。日本の自動車分野での環境技術は世界的にみても依然として高い水準を誇っています。

日本の自動車メーカーの環境への本格的な取り組みは、1970年にさかのぼります。この年、アメリカでマスキー法(大気汚染防止法)が制定されました。当時世界で最も厳しい排出ガス規制とされたマスキー法を世界で初めてクリアしたのがCVCCエンジン搭載のホンダ・シビックです。1973年の発売以来これまでのアメリカでの販売累計は550万台を超えています。

1969年、ホンダは人気車種に欠陥が見つかったことから、会社存亡の危機に立たされます。起死回生のため20代の技術者を中心に『低公害エンジンプロジェクト』を立ち上げますが先発大企業の技術の「改良」を試みる若手に対し、独自技術の開発にこだわる社長・本田宗一郎との激しい格闘があったようです。そして4年後、F1レースで培ってきた「ガソリンを徹底的に燃焼させる」技術を一般エンジンに持ち込み、全く新しい方法で低公害化を実現します。

「これで世界一の自動車会社になる」と喜ぶ社長に、若手は「私たちは社会のためにやっているのだ」と反発します。この言葉を聞いた本田宗一郎氏は「自分の時代は終わった」と、まもなく社長の座を降りることになります。

テレビでも幾度も取り上げられたエピソードですが、日本の環境技術史の面でも再評価する必要があるように思います。ダイムラー・クライスラー誕生に端を発した世界的な自動車業界の合従連衡もその要因のひとつとして環境技術の獲得にあることを見逃してはいけません。日産や富士重工、スズキ、三菱自工などが相次いで海外企業の傘下に入りましたが、「新生銀行方式」や「山一證券方式」、見向きもされない「ゼネコン業界」とは似て非なるものと思います。

特に日本の場合、企業合併、買収、提携において「する側」と「される側」の単純な議論が繰り返されてきました。結果として国境を超えたパートナーシップに結びつくこともあります。特にルノー・日産の仏日連合は、お互いの文化がもっと深く融合できればこれまでにないコンセプトの車が出来上がるような気がします。

各社とも開発にしのぎを削る燃料電池車は、ハイブリット技術なしには実現できません。また自動車以外でも包装容器リサイクル法、家電リサイクル法への対応から家電メーカー、OA機器メーカーが環境技術に対して本格的に取り組みを始めています。

大友 なるほど、日本企業は様々な形で環境保全というスローガンを掲げ、実行していると思います。ただ、ひとつ気になるのは海外、特に途上国に出た日本企業のあり方です。私は、製品自体は環境保全になっていても、製作段階で環境を汚染していては、両者が相殺してしまい、結局は意味が無いと思うのです。

例えば、日本は大量の二酸化炭素等の排出国ですし、一部の廃棄物が海外に流れ出てているといった話もあります。さらに、環境基準が緩い途上国に進出している日本企業はその基準に合わせて大量の排水や煤煙を出しています。

これらが、日本が「環境破壊大国」とレッテルを貼られる理由のいくつかですが、やはり環境を汚しながら「環境にやさしい」製品を作ることには意味が無い。この点で、日本の企業ならびに国民は、表向きの環境保全だけでなく実際の中身ももっと知る必要があるのだと思いますね。

☆環境と政治

園田 現在の与党三党は「循環型社会基本法案」で票を取りにいったようですが、見事に空振りに終わりました。現在はITを柱にした経済再生に集中しています。「失われた10年」は環境面では「失われずにすんだ10年」かもしれません。バブルの狂乱より現在のほうがまともですよ。この点でもう少し踏み込んだ理性ある議論を期待しています。

経済成長率や失業率、財政赤字統計などに一喜一憂している様子が最近非常に滑稽にみえて仕方がありません。どこまで伝統的なマクロ経済指標にこだわるべきかの議論も必要ではないでしょうか? 環境評価を反映した新たな指標が望まれます。このあたり大友さんはどうお考えですか?

大友 GDP、消費、貯蓄等のマクロ経済指標を基に経済を測ると、これらの指標を改善する為の策しか練られませんから、環境は無視されることになります。本来なら、園田さんの仰る通りバブル後の日本は「環境評価」を含んだ経済の構造改革を進めるべきだったのだと思います。あのような状況下であったからこそ思い切った改造ができたかもしれません。

しかし、政治的な面では実際的な話ではないのでしょう。これは「環境にやさしくする」ということは「国民の生活を不便にする」という面があるからです。再利用よりも再使用の方が環境にはやさしいとしたら、例えばドイツのようにペットボトルを禁止してビンに置き換える必要があるでしょうし、缶ジュースの類や、コンビニ弁当といったものも規制の対象にすることになると思います。

これは、消費活動においてはマイナス要因になるでしょうし、便利さに慣れた国民の同意を得られるかも疑問です。もちろん関連企業にとっては迷惑この上ないことですから必死に反対工作を練ることになるでしょう。

このようなことに対処できる政治家など日本に存在しないでしょうね。彼らにとっては、選挙での票の獲得が一番の課題ですから、票獲得のマイナス要因になるものには触れたくない訳です。これを当たり前だと感じる政治家は発想が乏しい証拠です。全体の為の戦略的な考えが出来ない、利己的な人間でしょう。

逆に「環境問題」を自分の票につなげられる政治家にお目にかかりたいものです。その重要性を論理的に訴えることができれば、その政治家は支持されるべきでしょうし、この点においては国民が意識を変えていかなくてはならないでしょう。コンビニと携帯電話会社の提携で「さらに便利な社会に」という話が出てきたばかりですが、悪いとはいいませんが、正直あまり感心しない話ですね。「便利」=「良い」といった短絡的な思考はもうやめるべきです。

ただ、日本政府が何も手を打っていないかというと、そういう訳でもありません。例えば、1993年の環境基本法では国際環境法で打ち出された、「地球益」と「人類益」という新たな概念を盛り込みました。残念なのが、これらの概念が形骸化しており、国民の間に浸透していないという現状です。これでは政治家は「環境問題」を票につなげるのは難しいでしょうね。

園田 現在、国会では2001年4月の施行を目指して太陽光や風力発電などを加速させるための「自然エネルギー発電促進法案」の審議に入っています。自民、民主、公明など五党の超党派の議員で構成する「自然エネルギー促進議員連盟」(会長・橋本竜太郎元首相)が検討を重ねてきたものですが、ここにきて雲行きが怪しくなってきました。与党側が電力会社に対する推進義務表現を削除した代替法案作りを進めいることが明らかになったからです。小売り自由化による電力市場の競争激化を背景に、自然エネルギー買い取り義務に反対する電力業界などに配慮したようですが、野党や現行案の作成に参加した市民団体からの反発は大きいようです。結局のところこれも票ですね。循環型社会基本法案も同様ですが、もう少しオープンに議論していけば新たな票の獲得にもつながるようにも思うのですが、どうも過去の呪縛から逃れられないようです。
票にならない分野として日本では「外交」も挙げられますね。「外交」すなわち国際戦略と呼んでもいいでしょう。近頃「環境戦略」的な議論も多くなってきました。途上国はこれまで「今後『持続的な経済成長』が必要だ。途上国の弱い経済に排出ガス削減が義務づけられれば、成長を阻害することになり、絶対に受け入れられない」と主張してきました。確かにCO2排出量削減は、途上国からすれば先進国のエゴイズムに見えてしまうのもわかる気がします。過去にさかのぼって排出量を規定するのであれば別ですが、そうなっていないですね。ここに大きな矛盾が生じています。

1997年の地球温暖化防止京都会議(COP3)においてこの問題が大きくクローズアップされたことは記憶に新しいと思います。さてどうでしょう。環境問題は各国の文化を内包しながら、途上国の債務問題と『持続的な経済成長』とが絡み合い、より複雑化してきました。コンセンサスを引き出す為に強力なイニシアチブが必要となってきています。これまでどうりの20世紀型社会経済システムの限界が見えてきたような気がします。

☆持続可能な開発は可能か?

大友 園田さんのご指摘通り、「先進国のエゴイズム」という点が環境問題を考える上で重要です。環境問題自体が経済開発と密接に絡み合い政治化しています。そして、OECD諸国だけで40%近い温室効果ガスを排出しているという現状があります。さらには、先進諸国は環境を自国の都合のいいように破壊して発展してきたという歴史があります。例えば、ロンドンでは建物が多く立ち並び住宅も密集し、中心地ではハイド・パークやリージェント・パークなどの人工の巨大な公園がありますが、昔はロンドン一帯全てが森だったのです。ロンドンは森が破壊されて出来上がった都市なのです。これはもちろん、ロンドンに限ったことではないでしょう。

このような事実を語らずに、単に途上国には「環境を破壊するな」などということは「先進国のエゴイズム」に映るのは当然です。植民地化して多くの人命や資源を奪い取り、今ではそれは悪いことだからしてはいけないと言いながらも誤りもしない旧宗主国としての先進国のあり方が反映されているように見えます。国際関係ではこのようなバイアスが掛かっているわけですが、それを取り除いていかない限り、新しい解決法は見えてきません。

実際問題として、「環境破壊なしの開発」は先ず無理でしょう。開発が進めば進むほど環境破壊も進むのが現状だと思います。とすると、選択すべきは「経済成長を抑制しつつ環境を守る」か「環境には気を配りつつも開発を優先させる」かになります。途上国が望むものは何よりも経済成長ですから、後者の考え方が支配的になるでしょうし、ある程度の先進国で環境問題に敏感な国は前者の考え方になると思います。

園田 私自信の結論も大友さんと同じです。「環境破壊なしの開発」は不可能です。先進国側にとってさらなる成長を前提とするには大変聞こえのいい「持続可能な開発」と途上国の「持続的な経済成長」への熱望に支えられて行き着くところまで行くしかないようです。そして見えてくるのは「破局」だけです。この20世紀を今あらためて振り返ると人間はそんなに賢くないようです。このままずるずると一歩手前あたりまで行くんでしょうね。

大友 核戦争などは直前で回避されるかもしれません。が、環境問題で恐ろしいのは、「じゃあ止めよう」と言ってすぐに事が片付くわけではないという点だと思います。つもりに積もった環境破壊がある日突然、人類に襲いかかる。その時にやめてももう遅いですし、ぎりぎりのところも見極められないでしょう。もしかしたら、もうぎりぎりのところまで来ているのかもしれません。これが分からないのがこの問題の最大の脅威ですね。

園田さんにメールはyoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp