執筆者:伴 正一【元中国公使】

●価値観の多様化はまやかし!

価値観が多様化したら政治も多党化……そう言われてしまうとうっかりそうかと思い勝ちだが、そう簡単に鵜呑みにしていいものだろうか?

それが当然だと言うなら、違った価値観を正しく反映させるには、今の日本なら幾つくらい政党があって然るべきなのか目安が立っていてよさそうなものだ。しかしそんなことは、議論されているのを聞いたこともない。

それどころか先ず第一に、唯一政権政党の座を誇る自民党はどうだ。冷戦時代の自由主義世界観や反共思想のような、意味があって分り易い旗印がいま自民党にあるだろうか。党のなかそのものが、野党になったら2年と持たないと言われるほどバラバラ、民主党を笑えないのが実情ではないのか。

今の与野党がほとんど与党体験を持ってしまったことは、それぞれの党の主張を現実的なものにする上で1つの前進だったには違いない。だがその反面、与党の甘い水に魅惑されて第二の政権政党を作る気概と結束力は失われ、同じ言葉でも「連立」は、万年与党的地位を取り戻した自民党に擦り寄る大義名分と化した観がある。(地金の価値観にオブラードをかぶせて議席を伸ばして来た共産党は昨今益々その傾向を強めている。)

昨今の政党の離合集散など、どう見ても価値観の多様化などという高尚な語感のものとは縁もゆかりもないところで行われているように思えてならない。確かに趣味や衣食住の生活様式は多様化していると言えようが、価値観も同じかどうかは甚だ疑問である。

思想面で言うと価値観は多様化どころか均一化しているのが現状ではないか。日本の政界に価値観と呼べるような独自色のある思想があると言うなら教えてもらいたいくらいだ。意地悪い見方をすれば、価値観の喪失こそが今の日本の最大の問題なのではないか。

●有権者泣かせの多党化

理屈は別にして総選挙告示の前日に行われた主要7党首討論会なるものを新聞で読んでみた。現役的な仕事からあらかた手を引き、自らの実感で国の歩み70年を反芻している私でさえ、正直言ってすらすらは読めなかったというのが実感である。それを”平均的有権者”に辛抱して読めというのは土台無理な話だ。

そこを見越してか、「各政党党首の文書での回答」という一覧表が参考に添えてある。確かに読者への配慮ではある。だが、7項目にわたる7人の答え,合計49コマの表は、かなりの物好きでもじっくり見る気はしないだろう。よしんば丹念に眺めてみても断片的なことが何か頭に残ればいい方だ。

政党を選ばせるのにこの程度の工夫では、歯が立たないどころか、「まだ無神経」の謗りを受けても仕方があるまい。

政党別、候補者別羅列スタイルのこの種の記事が、これからの12日間新聞という新聞の紙面を埋めるのかと思うと、一般有権者からは碌に見向きもされないで壮大な空振りに終るであろう選挙報道の空しさが思いやられる。

すべての大人に”選ぶ権限”を行使させるという、考えてみれば無鉄砲な政治制度がデモクラシーだ。多くの国でそれが半ば虚像化しているのも無理はない。 人類普遍の原理などと言葉遊びに耽っている時間があったら、選ぶ側の事情を、素養の程度や日々の生活態様、更には内面的な心理にまで立ち入って徹底的に調べ上げたらどうなのだ。

そしてせめて選挙期間の報道くらいは、候補者の行動記事や各陣営の事務所風景を程々にして、候補者の意向に沿った一騎討ちのデイベートのような実のある内容のものを増やしていったらどうか。それはデモクラシーの生き残りを賭けた大仕事と言ってもオーバーではない。

デモクラシーはもっと各論をしっかりやらないと駄目ではないか。

分らないことだらけ、おかしなことだらけなのに、どれもこれも思い付き程度の対応しかできていない。マスコミをふくめた日本の知識人は何をしているのだ。多党化が有権者泣かせになることくらい分らなくてどうするのだ。

●憲政の常道はスッキリした形に

経済が自律回復の軌道に乗るまでは、景気対策優先の見地から連立論議も控え目にすべきなのかも知れない。しかし、今回の選挙は連立政権の可否を問うものだともされているのだから、[多党化と連立政権」には踏み込めるだけ踏み込んで、中長期的視野を展開しておくことが時宜を得ているようにも思われる。

問題の核心は、第一党の議席が過半数に達しないからと言って、直ちに連立政権しかないと考えるべきかどうかという点である。

内閣首班指名の段階では指名獲得に必要なだけの他党からの支持を求める外はないが、指名を受けた首班が内閣を組織するに当たっては(自ら掲げた党の公約を連立で接ぎはぎ修正することなく)真っ直ぐに公約を実行できる体制に万全を期すべきではあるまいか。

その立場からすれば敢えて第一党で単独内閣を組織し、首班指名の際の支持政党とは部分連合的(閣外協力)関係を考えるのが望ましくはないか。

アメリカでは時折、大統領派が議会で過半数を取れないまま国政が何とか運用されているではないか。小渕内閣の初期にも部分連合が結構効能を発揮した時期がある。

第一党が総辞職した場合、同じ考え方で第ニ党が単独内閣を組織するというのも妥当と思われる。

そこで第3党以下の立場に触れておくと、立法府たる国会では是々非々で存分の主張をし、政党の名に恥じぬ役目を果せばいい。ただ、行政府たる内閣には、他日第2党にノシ上がる日を期してそれまでは関与しないということだ。

何れも慣れないうちは戸惑いもあろうし、全く例外を認めないほど硬直した考えに立つ要はないが、しばらくそれで行ってみたら、憲政の常道としてかなりスッキリしたものになりそうに思われる。

そうこうしているうちに有権者の8割、9割が、第一党、第2党の党首2人の間の一騎討ちという感じで投票に臨むようになれば、総選挙は一人の国会議員を選ぶのに止まらず、総理を選ぶという感覚に近いものになって行くことであろう。ここまで来ればしめたもの、大部分の有権者は言われなくても責任を感じ、気持ちにも弾みが出て、国政に対する日頃からの関心も高まってくるに違いない。

連立の時代などというコトバに酔っている時ではない。政策が合致すれば連立というのも分ったようで分らない話だ。政策が全面的に合致すれば党を一つにすればいいし、部分的に合致する程度なら部分連合でいけばいい。大切なことは、厳粛なるべき公約にヤスリを掛けなくてはならないような連立の話に軽々しく乗らないことだ。 二大政党方式が軌道に乗るまでは,やむを得ない紆余曲折もあろうから、時には目をつぶるということもあろう。

しかし今のままで放置すると、キャステイング・ヴォートを握る第3党以下の小党がしばしば桁はずれの実権を手にし、国民大多数の意思と関係なく、ほしいままに政権の行方を決めてしまうケースが頻発しそうである。

本筋は本筋として踏まえた上での妥協ならいいが、党のメンバーが味をしめた大臣の居心地のよさなどへの抑えが利かないまま、無節操に連立に動くことは何としても思いとどまるよう要望してやまない。

●党議拘束緩和の是非

最後にもう1つ重要な関連事項について付言するなら、与野党を問わず、党の公約事項に触れない案件については、討議拘束をあまり厳しいものにしないことにしたらどうかということだ。

すべての案件について、採決が行われる前に採決結果が分ってしまっているようでは、国会での論議を実質上無意味なものにし、少数派が対抗してその存在を示す手段は、審議拒否とか坐り込みによる入り口封鎖のような屈折したものに限られてくる。党議拘束の緩和はこの種の非正常な慣習をなくし、国会での論議を盛り上げる上で決定的な効果を齎すだろう。

公約事項以外での党議拘束緩和は、また、反射的に公約の重みを増す形で曖昧になり勝ちなデモクラシーを引き締まったものにして行く効果を発揮するに違いない。(「魁け討論 春夏秋冬」から転載)

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