執筆者:岩間 孝夫【萬晩報通信員】

きのうは5月8日は八田與一の58年目の命日だった。

八田與一がどういう人物かは萬晩報1999年7月18日号「台湾で最も愛される日本人-八田與一」で主宰者の伴武澄さんが書いた。未読の方は是非この文章を読む前にお読み頂きたい。今回はその続編である。

八田與一は明治19年(1886年)に生まれた石川県金沢の人である。東京帝大で土木工学を学び明治43年(1910年)大学卒業間もなく台湾総督府土木部の技師となった。時に台湾が明治28年(1895年)日清戦争後日本の領土となってから16年目の年である。

日本の領土となった頃の台湾は約300万人の人口であったが、清朝も悩まされた土匪の抵抗、誰の支配も認めない原住民の存在、阿片の風習、マラリアやコレラなどの伝染病、等の原因により、極めて近代化の遅れた土地であり、樺山資紀(初代)、桂太郎(二代)乃木希典(三代)の総督時代(約三年間)は土匪(抗日ゲリラ)討伐に明け暮れた時代であった。

そのような台湾の日本による開発が大いに進むのは第四代総督児玉源太郎が内務省衛生技官であった後藤新平を民政長官として伴って赴任した明治31年(1898年)春以降のことである。

日本国内や満州での政務や軍務に忙しくほとんど留守であった児玉に代わり約9年間具体的行政を指揮した後藤の辣腕により台湾の近代化は大いに進むことになる。しかしこのプラス面のみならず、後藤の始めた「警察政治」により後藤の就任から当初の5年間だけでも処刑された土匪は当時の台湾人口の1%を超える3万2000人にも達したことは、歴史の一面として理解しておく必要があるだろう。

ともかく、八田與一が台湾に赴任するのはその後藤時代が終了(1906年)した後のことであるが、後藤時代に近代化が大いに進んだとはいえ、それは以前があまりにも遅れていたことでもあり、八田が精力を傾けることとなる土地開拓はまだまだ極めて遅れていた。赴任後の八田の業績や夫妻の物語は伴さんの文章に譲る。

毎年5月8日、八田與一夫妻の追悼式が台南県烏頭山にある八田夫妻の墓の前で現地の人々の手で行われるというので一度訪れてみたいと思っていた。今年やっとその墓を訪問する機会を得たが、休みの関係で訪れたのは命日の日より3日早い去る5月5日であった。八田の銅像と夫妻の墓は、烏頭山ダムを見下ろす小高い土地の一角にあった。

八田與一の銅像と夫妻の墓の前に立ち、八田が先頭に立って作った広大で美しい烏頭山ダムを目の当たりにすると、あらためて八田の遺徳の素晴らしさと、その銅像と墓を50年以上守り続ける現地の人々の感謝を忘れぬ暖かい心に感動する。

夫妻の墓は昭和21年(1946年)12月、嘉南大シュウ(土へんに川)農田水利協会により建てられた。日本はこの前年戦争に敗れ、この年の四月には最終の引き揚げ船が出港している。すなわち夫妻のこの墓は、日本人が台湾を去り、日本統治時代の神社や記念碑や銅像が次々に破壊されるなかで地元の人々の手で建設されたのである。しかも墓石は台湾にならいくらでもある大理石ではなく、日本人の風習通り御影石だ。わざわざ高雄まで行き探してきたという。

夫妻の墓の前に建つ八田與一の銅像が作られたのは烏頭山ダムの建設完了から一年後の昭和6年(1931年)7月である。像は一般的によくあるような、正装し威厳に満ちた顔付きのものではなく、作業着で土手に腰を下ろし考え事をしている座象である。費用は八田と共に働いた人々の寄付でまかなわれ、八田を慕う台湾人の工夫からも多くの寄付が寄せられた。

銅像は最初昭和6年に建てられたが、戦争末期の昭和19年(1944年)、軍の命令で銅の供出が叫ばれるなかその姿を消し、誰もがその存在を諦めていた。ところが、戦後その銅像がたまたま嘉南農田水利協会により発見されたのである。しかし時代は日本色を一掃し強権で台湾を支配化に置こうとした国民党白色テロの時代。そのような時に日本人の銅像を隠し持つことは命がけであった。そこで銅像は八田家族がかつて住み当時空き家となっていた家のベランダに置かれたが、やがて嘉南の農民がこの家の前を通る時、人々は手を合わせて拝むようになった。

この銅像が再び日の目を見たのは、蒋介石も既に亡くなり、台湾経済が豊かになり始め政治的にも民主化の芽が芽生え始めた蒋経国時代の昭和56年(1981年)1月である。戦時下に持ち去られて以来37年ぶりに銅像は元の位置に復活した。台湾に残る唯一の日本人の銅像である。

烏頭山ダムを見下ろしながら建つその銅像と墓の前で、八田與一の命日から今日まで追悼式はただの一度も欠けることなく、誰からの命令や指示を受けることなく、地元の人々の手で続けられている。

昭和54年(1979年)八田與一の長男晃夫氏が両親の墓参りのため訪れた時には、81歳になるという老人が老妻に手を引かれ杖をついてわざわざ会いに来て「私は電気技師として烏頭山で仕事をしました。今でも八田所長の下で仕事をした事を生涯の誇りとしています。一言、私の気持ちを息子さんにお伝えしたかった」と語ったという。

私は5日に訪れたが、その前日の4日には石川県から八田與一に縁のある人や地域関係者が約100人訪れ、現地の人々と共に追悼式を行ったとのことであった。そのため銅像や墓の周りは菊、百合、カーネーション、ガーベラ、グラジオラスなどをあしらった両国関係者からの花輪が18個きれいに並べられており、銅像や墓は菊の花で包まれていた。嘉南農田水利協会が建設中の八田與一記念館は八割ほど出来上がり、間もなく完成する予定である。

50年間の日本時代、その後55年間の国民党時代。そして今月20日には台湾で初めて国民党以外の政権が生まれようとしている。このたびの政権交代は台湾の歴史上極めて大きな意味を持つ変化の節目である。

そのような台湾にあって、いかに政権が変わろうとも、事業完成後70年を経ても地元の人々から感謝を捧げられ、死後約60年を経ても人々から神のように慕われる八田與一。我々は日本にそのような先人を持つことを誇りに思うと同時に、社会がますますグローバル化する現代、他民族や他国との付き合い方を八田から学ぶべきであろう。

参考文献 「台湾を愛した日本人」(古川勝三著 青葉書房)

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