執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

宗教と無関係と考えている人でも、人生で何度か神聖な気持ちにさせられ祈りを捧げた経験があるだろう。筆者はこれまでの人生でそんなことが2度ほどあった。今日は「寧波報告」02月09日付萬晩報「中国で復活した蒋介石委員長という呼称」の続編のつもりで「祈る」ことについて書いた。

●思わず唱えさせられる「南無大師遍照金剛」

初めは比叡山延暦寺で千日回峰行の最後の断食行を取材したときだ。修行僧が10日間の断食行を終える最後の未明、その偉業達成を祈る信者が1000人以上も集まり、経の唱和が極寒の山中にしみわたった。

白装束の修行僧が介添人に支えられながらお堂を出て、閼迦井の水をくみに出てくると、1000人の唱和が山を動かすほどの一体感に達したように感じられた。そのときほど、それまで信心のなかったことを恥じたことはなかった。

2度目は四国・善通寺での体験だ。本堂だったと思う。地下に回廊が巡らせた不思議な空間があった。階段を下りる入り口に「左の手で壁をつたいながら南無大師遍照金剛を唱えよ」と書いてあった。この意味を理解するのに大して時間はかからなかった。

閉ざされた暗闇に一人で入ったとたん得も言われぬ不安に陥った。そして思わず「南無大師遍照金剛」を口にしている自分自身に気付いた。この言葉を口にせずには前に進めなかったのだ。この気持ちだけは体験しなければ分からないと思う。

やがて前方にポッと明かりが見え、小さな大日如来の座像が現れた。大した距離でもないのにとても長い時間を暗闇で過ごしたような気持ちがした。同時に心の底から「南無大師遍照金剛」を唱え「救われた」と思った。不遜ながらこれまでの生活で救いを求めたことはなかったが、宗教とはこういうことなのかという気持ちにさせられた。

●中国人僧侶と唱和した「南無阿弥陀仏」

今回の中国・寧波の旅でも似た体験をした。蒋介石の揮毫を国清寺でみたことは前々回に報告した。国清寺は寧波から南東200キロの山中にある天台宗総本山で、平安時代の初期に、最澄が天台宗を学んだ寺院である。ちなみに真言密教をもたらした空海が学んだのは長安の都にあった青龍寺である。

遣隋使から始まる日本から中国へのかつての留学僧の多くが中国大陸への第一歩を踏んだのが寧波という町だった。宋の時代には福建省の泉州(ザイトン)と並んで2大国際港湾都市だった。その町にどうしても立ってみたいというのが今回の旅の目的だった。

寧波の郊外にはもうひとつ日本人にとって忘れてはならない寺院がある。曹洞宗大本山天童寺だ。13世紀初頭、20歳代の道元が如浄和尚から曹洞宗の法灯を授かったところである。このとき道元に「仏祖正菩薩戒脈」が授けられた。

意味するところは「仏陀、達磨、慧能、洞山・・如浄と伝わった座禅の法灯を日本人僧である道元に授ける」ということである。1227年、道元28歳のときである。宗門の法嗣(本家)が異境である日本に移ったのは真言密教と禅宗では曹洞宗とふたつということになる。

天童寺に入ったのは静かな木曜日の午後だった。寧波の町を出てしばらく南下し、さらに峠を越えると松並木が両脇に続く道に変わった。在所を通り過ぎ小さな山門をくぐったその先に天童寺はあった。

本来ならば、ここで下車しなければならないのだが、運転手の老王は「外国人のお客だ」といって車を通過させた。中国で参道なるものに出逢うとは思わなかった。並木の背丈は高くないからどう考えても50年前の革命以前からあるはずがない。

天童寺の本堂では、ちょうど読経の時間に居合わせた。広い境内に入ったときから熱心に手を合わせていた老婦人の姿が目についていた。本堂に足を入れたとき、この老婦人もまた一緒だった。

50人ほどの僧侶が本堂の中を巡りながら「南無阿弥陀仏」お経を唱えていた。日本の読経と違って音階がある読み方だった。なるほどこれが声明(しょうみょう)なのだと一人合点した。

仏教音楽とされる声明は日本の寺院ではあまり人前で披露されることはない。比叡山延暦寺などでは秘伝の儀式なのだ。だがここでは毎日の修行の一環のようである。その唱和に聞き惚れていると一人の僧侶がわれわれ異境からの客人とその老婦人を声明の列に引き入れた。

われわれは800年前の道元の世界に引き戻され、自然な気持ちで「南無阿弥陀仏」を唱えていた。偶然のことなのだが筆者は4カ月前、南アフリカで亡くした弟の成仏を祈った。

文化大革命により中国で死んだはずの仏教はまだまだ健在だと確信した。