執筆者:伴 美喜子【マレーシア国民大学外国学部講師】

マレーシアの日本語学習者にとって、年に2回「力試し」の機会がある。「夏」の「日本語弁論大会」と「冬」の「日本語能力試験」である。

日本語能力試験は毎年12月の第1日曜日に世界各地で一斉に実施されるもので、マレーシアでは例年2千人前後の人が受験している。実施地はクアラルンプール、ペナン、イポーの3か所。1993年の統計では日本国内を除き,世界で8番目に受験者数が多かった。マレーシアの人口が約2100万人しかないこと、「半」非漢字圏であることを考慮すると、いかに日本語学習熱が高いかが窺える。

ある年は実施機関のスタッフとして、またある時は受験者の引率者として、何度も試験会場につめたことがあるが、受験者たちの緊張した姿を見るにつけ、こんなにも多くの老若男女が日本語を勉強しているのかと感動したものだ。

日本語弁論大会の方は、幾多の変遷を経て、今年で第15回を迎える。国際交流基金が中心となり、クアラルンプール日本人会、マレーシア日本人商工会議所、日本大使館等の協力により実施されている。

1995年のマレーシア日本語弁論大会全国大会は、日本留学予備教育プログラムの学生(当時3つのセンターの在籍者は合わせて700人近く)やクアラルンプール、ペナン及びイポーの地区予選を勝ち抜いてきた者が一堂に会し、日本語の技を競い合った。

会場のコンコルド・ホテルには公・民を問わずあらゆる日本語教育機関の関係者や応援団が大勢集まり、盛況を極めた。大会が大きくなりすぎてか、現在では「予備教育課程の部」と「一般の部」に分かれて別の日に実施されている。

参加者たちの日本語能力はこれまで年々高くなってきた。また、その内容も胸を打つものが多く、日本人にとっては、マレーシア人の考え方を知る良い機会でもある。過去の大会で印象に残った作品のタイトルの一例をあげると「夢」「虎のような強い意志をもって!」「日本人の忘れ物」「文字」「愛が心に与える力」「私が見た日本の国際化」「それでも人生はすばらしいですね」など。

マレーシアの青年はきれいごとを並べるばかりで、社会問題に対する関心や批判精神にかけるとコメントした方もいるが、この複雑な多民族国家の内情を考えると、私には彼らの竹のような素直さと、物事をポジティブに見る明るさが、すがすがしく感じられるのことの方が多かった。

そんな中で今も8月になると、思い出すスピーチがある。1992年に私が初めて事務方として経験した日本語弁論大会の優勝作品で「おじいさんと広島」と題するものだ。拙い日本語で語られた素朴なものだったが、彼女の豊かな表情ととも今も忘れられない。原稿が手元に残っていたので、本人の了解を得て、以下にご紹介しよう。

●おじいさんと広島

みなさん、こんにちは。私はクアラ・セランゴールから来たジュリア・イスマイルです。今、クアラルンプールのパン・パシフィック・ホテルのけやきと言うレストランで働いています。1990年4月から1991年の2月まで日本の広島女学院高校に1年間留学しました。

日本に行く1週間前に、私はおじいさんとおばあさんのところへ行きました。

「おじいさん」

「なんだ」

「私は外国へ留学しますよ」

「そりゃ、いいね。で、どこの国だね」

「日本です」

「それはいけない。だめだ。日本は悪い国だ。マレーシア人は戦争の時、日本人にひどい目にあわされた。日本軍は北の方から突然せめてきた。みんな林の中に隠れて生活した。特に可愛い女の子のいる家は、絶対に見つからないように逃げ回った。それでも彼らは見つけ出して悪いことをした」

「私の妹はお腹に赤ちゃんがいたから、見つかって殺されないように林の中に隠れていた。すぐそばを日本の兵隊の靴音がして、とても怖かったが、息を殺して隠れていた。私の友達は勇敢だったから、ひとりで刀を持って飛び出して、銃で撃たれて死んだんだ」

「おじいさん、それは昔の話ですよ」と、父が言うと、

「若い者に何がわかるか!人生は楽しいことばかりじゃない。辛いこともある。私はあの時のことを忘れない。ほかの孫にも絶対に行かせないぞ!」と言いました。

マレーシアでは年上の人に口答えをしてはいけないので、私は黙って聞いていました。

「あれは昔のこと。ジュリア、行って来なさい」と言う父の言葉に励まされて、飛行機に乗りました。

日本に行く前、私は日本の文化について何も知りませんでした。私が知っていたのは、マレーシアのテレビで見た「おしん」と言うドラマの中の日本人でした。日本の食べ物はおにぎりで、服装は着物でした。今も同じだろうと想像していました。

ホーム・ステイ先の家で初めて食事をした時、「あれっ、おむすびじゃない!」と思いました。その日は鶏肉のスープやいちごなどいろいろな食べ物がテーブルの上に並んでいました。ちょうど私の18歳の誕生日で、ホスト・ファミリーはプレゼントを用意して私を迎えてくれました。私は嬉しくて、初対面の時から涙を見せてしまいました。

うちから学校まではバスと汽車で一時間半かかります。朝5時に起きて、帰りは7時すぎです。私はこの通学の時間をとても楽しみにしていました。朝はとてもすがすがしく、夜は家々の灯かりがポツポツと汽車の窓から見えます。何とも言えない気分になるほど、美しいのです。

4月から広島女学院に通いはじめました。みんなが、

「平和公園に行ったことある? まだなら、いっしょに行こうか」と、言いました。

私は、広島に原爆が落ちたことも知りませんでしたから、もちろん平和公園の意味もわかりませんでした。普通の公園だと思いましたから、

「いいよ、いつでも行くよ」と答えました。

5月に初めて原爆資料館、公園と川、そして原爆ドームを見ました。それでも、まだよくわかりませんでした。

私は海外の人たちに8月6日のことをラジオで伝える国際プロジェクトに参加し、8月6日にまた平和公園に行きました。たくさんのおじいさんやおばあさんが花や折り鶴を持って公園に来ていました。川のそばに立って、ひとりで泣いている人もいました。

私のところへ一人のおじいさんが来て、

「どこからきたん」と、尋ねました。

「マレーシアからです」と言うと、おじいさんは、

「ごめんなさい」と謝りました。私は何のことだかわかりませんでした。

夜、灯篭流しを見ているうちに突然たくさんの質問が浮かんできました。

「私は東京や横浜や北海道ではなくて、どうして広島に来たんだろう。これはどういう意味なのか。この公園で私は何をしたらいいんだろう。ドームの修理や保存にどうしてあんなにたくさんお金が集まるのだろう」

そして、また突然、答えの手がかりがひらめいたのです。さっき会ったおじいさんは戦争の時、日本がマレーシアにしたことを「ごめんなさい」と言ったんだ。

私は、灯篭を一つ流しました。その灯篭にはこう書きました。

「この灯篭はマレーシアに行きます。おじいさん、おばあさん、わかってください。平和公園で私は日本人と一緒にお祈りをしました。私たちの心は一つです」と。

「2月に私はマレーシアに帰ります。今度はきちんとおじいさんとおばあさんに答えられると思います。今、日本は違います。あれは昔のことです。この写真を見て下さい。広島でもたくさんの人が死にました。赤ちゃんや子供もいます。

今でも原爆症で死んでいる人もいます。日本人はマレーシア人と同じ気持ちです。私は、他の都市ではなく平和都市広島でホームステイをしたお陰でこのことがわかったような気がします」と心の中でつぶやきました。

地図をみると、マレーシアと日本はとても近いです。でも、お互いにもっと理解しなければならないことが、まだまだたくさんあります。私は新しい世代のひとりとして、マレーシアと日本の友情のために役立ちたいと思っています。

私は日本の広島で会った人たちといっしょに学んだことを決して忘れません。どうもありがとうございました。

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