執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

●急増する移民に着目して銀行を設立した住友

大阪府守口市にぽつんと四国銀行の守口市店がある。高知市に本店を置く地方銀行の支店がなぜこんなところにあるのか不思議に思った。尋ねると「明治時代に土佐の大工が多く移り住み、郷里に送金していた時代のなごりです」とのことだった。

銀行が支店を置く背景に、ヒトの動きがあることが分かって興味深いエピソードだと思うのは、最近、また同じような例をみつけたからだ。加州住友銀行というサンフランシスコに本店を置く銀行があった。昨年ユタ州のZions Bancorpに買収され現在 California Bank & Trust と社名変更したが、アメリカの金融機関として1925年に設立され、70年余の歴史を有した。

この銀行の設立経緯がおもしろかった。やはりアメリカに移り住んだ日本人たちのために住友銀行が現地法人を設立したのだった。実はその9年前の1916年に布哇(ハワイ)住友銀行を設立している。支店でなく現地法人という形態をとったのは、当時ハワイの銀行条例が支店開設を認めなかったからである。

しかも現地の法律では株式会社の設立には現地の居住者が役員に入る必要があったため、ハワイ住友銀行は株式会社ではなく、当主である住友吉左右衛門が全額出資する個人銀行からのスタートとなった。

●ハワイの人口の4割が日本人だった

ハワイには明治時代から多くの日本人移民が渡ったことはだれもが知っていることだろうと思う。だが驚いてはいけない。「住友銀行百年史」によれば、1918年のハワイの日本人は11万人に達し、総人口の4割を占めていたという。

西洋人が持ち込んだコレラなどによって最盛期30万人を数えたハワイ人の人口は激減し、サトウキビやパイナップルのプランテーション労働者としてやってきた日本人が人口のマジョリティーを占めるようになっていたのである。

ハワイ移民は広島、山口、福岡など西日本出身者が多く、西日本に比較的強い支店網を持っていた住友銀行への期待も大きかったといわれる。日本に残した家族に送金するニーズに着目した当時の住友銀行の当時の経営感覚はさすがである。

カリフォルニアでの日本人の勢力もハワイに負けず劣らずだった。20世紀初頭の西海岸の経済は南北に二分されていた。南部の中心地サンフランシスコでは総人口45万人に対して日本人7万人。北部のシアトルでは同30万人に対し、日本人3万人。人口の10-10数%を占めていたのである。しかも当時の住友銀行の報告書では、ハワイと併せてその貯蓄力を1500万ドルと推定している。

この状況は、1990年代に入ってからのフィリピンの状況に似ている。というのは同国の年間予算が約800億ドルであるのに対して、420万人の出稼ぎ労働者による海外からの送金が100億ドルに及んで、同国の財政や国際収支に多大な貢献をしているからである。

●理由のないことでない日本人排斥

第一次大戦以降、ハワイやカリフォルニアで日本人が排斥の的となったのは理由のないことではない。東海岸中心だったアメリカにとってカリフォルニアはまだ僻地で、日本人の急増が突出していた。大量の移民がヨーロッパ大陸からアメリカに押し寄せていたが、日本からの移民はハワイとカリフォルニアに集中していたから、当然である。

最近、歴史は必然でもなんでもないということを思い知らされることが多い。アメリカの歴史で日本人の人口増が政治化した時代が厳然としてあり、アメリカで政治問題化させるほどのパワーをかつての普通の日本人たちが持ち合わせていたことを併せて考えると興味深い。

ハワイはポリネシア系のハワイ人がもともと住んでいた土地であるが、プランテーション主などによって、最後の女王となったLilioukalaniが廃位に追い込まれ、1898年にアメリカ領土に組み込まれた。米西戦争でスペインからフィリピンを奪取した前の年である。

ハワイは1959年、アラスカと共に50番目の州に昇格した。筆者が幼少時代を過ごしたアメリカ国旗の星の数は今よりふたつ少なかったはずである。第二次大戦で日本が奇襲攻撃したパールハーバーは当時、まだ単なる海外領土で実はアメリカ本国ではなかったのだ。