執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

マツダは4月1日から営業拠点を東京から広島の本社(府中町)に移転、東京には広報の一部だけが残る。アメリカのフォードからやってきたジェームズ・ミラー社長が生産と販売の一極化を提案し、ようやく20年前の姿に戻った。フォードからやってきたミラー社長が決断したいいニュースだと思う。

取材した後輩記者の話だと現場でのミラー社長の評判がすこぶるいいらしい。もちろんフォードの世界戦略の中でのリストラはあるのだが「フォードの役員は現場の声を大切にする」というから驚きではないか。われわれは日本的経営こそが「現場の声を大切にしてきた」のだと信じて来たのではないだろうか。

こんな逸話もある。経営会議は日本語から英語が混ざるようになった。10億円は英語で「ワン・ビリオン・エン」だが、マツダ流英語では日本の桁取りにならって「テン・オクエン」という。日本人に分かりやすいよう工夫されたという。

●80年代に東京へラッシュした関西企業

これまでの日本人経営者は東京で記者会見をし、東京でニュースを発表したがった。発想の軸を東京に据えることが「一流企業」になる条件だと信じていた。おかげで土地も人件費もばか高い東京の価値はさらに上がり、広島の地盤はどんどん沈下した。

1982年から85年の間、筆者は共同通信大阪経済部の名刺で取材していた。住友金属工業、武田薬品工業、ダイエー・・・。多くの関西系企業が民族の大移動のごとく東京に経営の軸を移していったことに寂しさを感じた。

10年経つと、関西に経営トップが常駐する有力企業はわずかとなり、広報の主力部隊も東京に移った。「関西の空洞化」が懸念され、財界人は「関西復権」を声高くさけんだ。だがその財界人の出身母体企業が次々と東京を目指していたのだから、矛盾した話だった。

関西企業が東京を目指したのは、政府があり、業界団体があったからだ。当時、多くの役員たちが「大阪にいては情報が取れない」と漏らしていた。彼らは「霞ヶ関の役人」と「業界団体」を情報源と勘違いした。規制緩和がさけばれていた時代に官庁にすり寄ろうとしたのだから、大いなる勘違いである。

地域から世界的に発想するのはそんなに難しくない。京都府長岡京市に本社を置く村田製作所は地方での経営のメリットとして「業界団体活動に時間を割かれないですむ」ことを一番に上げている。同社はセラミックコンデンサーなど世界的な電子部品メーカーである。横並びの経営を続けてきた企業には無理だが、企業に活力があり、魅力があれば、世界の目がその地方にフォーカスされるのだという。

●日本人経営者にやってもらいたかった広島回帰

マツダの広島回帰はすでにいい影響を地域に与えている。大手のマスコミにとって、これまで東京まかせだったマツダの取材が、広島駐在記者の仕事になった。これまでほとんど縁のなかった「国際標準」などという表現が地方の若い記者の口から出るようになった。

自動車業界は裾野の広い産業だし、販売先も国際化し、記者にもグローバルで幅広い視点が不可欠。これまではそんな勉強は不必要だったが、これからはそうはいかない。トヨタ自動車の動向はもちろん、フランスのルノー社による日産自動車の株式取得といったニュースにも当然、関心を持つようになる。

本当は、地域活性化は日本人経営者にやってもらいたかったが、警察取材と夏の原爆取材が中心だった広島に新たな取材源が生まれることを記者として喜びたい。