執筆者:伴 美喜子【マレーシア国民大学外国学部講師】

8年前、私は国際交流基金の駐在員として期待と不安を胸にマレーシアに赴任した。クアラルンプールに到着して2、3日後だった。深夜にホテルのテレビをつけると、マレー人の男性歌手が「Sejahtera Malaysia」(平和なマレーシア)という歌を歌っていた。意味は分からなかったが、メロディーが優しく、そよ風のように心に響いた。

その後、コーランの一節が朗読され、続いてテンポの速いマレーシア国歌が流れて1日の放送が終わった。この曲を聴いたその夜、私は「この地でなら仕事も生活もうまくいく」との確信と安らぎを抱いて眠りについた。

この第二の国歌ともいうべき「平和なマレーシア」はロングランを続け、今も毎日テレビやラジオからそのメロディーが流れている。この8年だけでもいくつかのバージョンができた。それぞれの民族衣装をつけた5人の女性歌手のコーラスは特に印象的だった。音楽が人々の心を高揚させ、人々の心をつなぐものだということを知った。はたして今の日本にそんな歌があるのだろうか。

数年前、10年近くマレーシアに滞在する日本人とこんな話をした。

「こんな平和で安全な国、世界のどこにあるのでしょうね」

「そうですよね。複雑な多民族国家で本当に不思議なことですよね」

話はハリラヤ・アイディルフィトゥリ(断食明け)の首相官邸のオープン・ハウスのことである。

マレーシアでは、ハリラヤに首相、閣僚、各州知事たちがオープン・ハウスをすることが恒例となっている。場所や時間のリストが前日と当日の新聞に掲載され、だれでも参加できるのだ。

マハティール首相夫妻は、例年ハリラヤ初日に国王と同王妃と朝食を共にし、国王とともに国立モスクでハリラヤの祈りを捧げた後、官邸に戻って10時からのオープン・ハウスに出席。オープン・ハウスは昼の休憩をはさんで延々午後6時まで続く。正装よし、普段着よし、ちょっと親戚を訪ねるような気分で、緑に包まれた小高い丘の上の首相の家に車を乗り付ける。人々は大広間で迎える民族衣装の首相夫妻と握手し、時には言葉を交わす。

その後、野外に用意された飲み物やハリラヤのお菓子を存分に堪能する。警備はほとんど気付かないほどで、ボディ・チャックははおろか、持ち物検査もまったくない。来客は断食の「行」を終えたマレー系ばかりでない。首相夫妻を心から慕っている中国系やインド系国民、そしてもの珍しそうな外国人たちが入り交じって行列をつくるのだ。

昨年のハリラヤのオープン・ハウスは経済危機の最中だった。国民の不安や不満が高まって訪問者が減ったり、警備が厳しくなっているのではないかと案じたが、まったくの杞憂に終わった。

緑の美しい丘陵には例年通り、平和で牧歌的な風景が広がっていた。首相夫妻にあいさつする人々の笑顔、首相の手のぬくもり、落ち着いた表情、穏やかな物腰もどれもなんら変わっていなかった。

私は、今まで自分の中にあった「国」という概念を問い直さざるを得なかった。マレーシアは「国家」というより、1つの村、大きな家族のようなものではないだろうか。そして首相は内閣の首長という厳めしいものではなく、さしずめ「頼りになるオヤジ」といった存在ではないだろうか。私はこの国に漂うゆるやかな一体感を感じ始めていた。

あれから、また1年。マレーシアは新国際空港の開港、英連邦競技大会、APEC首脳会議の開催など歴史に輝かしい足跡を残す一方で、さらに激しい暴風雨に見舞われた。経済の低迷、ヘイズ(煙害)、酷暑による水不足、近隣諸国の政治的不安、そして決定打はマレーシアの21世紀を担うはずだったアンワル副首相の解任。その後の信じられないアンワル氏の性スキャンダルの裁判劇。

海外のメディアと一部のマレーシア人はマハティール首相を権力にしがみつく醜い独裁者と酷評した。国民は戸惑い、私などはマレーシアというこの南洋に浮かぶ小舟はいままさに転覆するのではないかとさえ危惧した。

今年のラマダーン20日目、つまり西暦1999年1月8日、4カ月間空席だった副首相のポストが埋まった。日本人の血を引く奥さんを持ち、「Pak lah」(ラーおじさん)と愛称で呼ばれるアブドゥラ・バダウイ氏が副首相に指名された。多くの人々はこの決定を賢明な選択として冷静に受け止め、安堵した。

南国の月日の流れは清濁を飲み込んで、今年のハリラヤを迎えた。恒例通り、首相官邸ではオープン・ハウスが開かれた。何も変わっていなかった。違っていたのは例年をはるかに超える人々が集まり、首相官邸が大変な混雑だったということだった。「押すな」「泣くな」(小さな子どもに向かって)「暑くてかなわん」「どうして警備を出さないのか」。

いくつもの言語が飛び交う中、新調した服をもみくちゃにされながら大広間にたどり着くとマレーの民族衣装を着た私服の警備係が速く前に進むよう来客を促していた。待った割にはあっけなく終わった今年の間はマハティール首相との握手だった。

その夜もニュースの後、テレビから「平和なマレーシア」のメロディーが流れてきた。

BAN Mikiko氏は、国際交流基金の駐在員としてクアラルンプールに赴き、4年半の勤務の後、同基金を退職、日本語教育のためにクアラルンプールに留まり、マレーシア国民大学のタイバ女史の要請で現在、同大で教べんをとっています。まだメールが出来ないので、ご意見がありましたら萬晩報経由でFAX送信します。

1999年01月12日(火) マレーシアのラマダーンの1カ月

1998年11月22日(日) マレーシア的マルチ言語社会