執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

●娘たちを日本人として育てたかった
10年以上も前のことである。岡山市の林原生物化学研究所の渉外課長をしていたパキスタン出身のムハンマッド・ライースさんは神戸市に引っ越し、新幹線通勤を始めた。理由は簡単だった。二人の娘を神戸のインターナショナル・スクールに入学させるためである。問題はそう決断した理由だ。
「家ではウルドゥー語を使っていたんですが、娘たちは小学校でも遊びでも岡山弁でしょ。自分たちは外人という意識はなかったんですが、顔かたちはパキスタン人。英語もできない外人ではこの国で暮らしていけないってことが分かったんです」
「この国に暮らしていて、日本人というのは日本で生まれた人という意味ではないんです。日本で生まれただけではだめで、まして日本語をしゃべってることなんて大したことではない。同じ顔をしていないといけないんです。中国人や韓国人なら日本で生まれて日本語をしゃべっていれば日本人と見分けがつかないでしょうが、パキスタン人は到底無理です」
ライースさんは、はじめは娘たちを日本人として育てようと考えていたが、このままでは娘たちは英語も分からない外人になってしまう。そう考えて神戸への引っ越しを決意した。この話はライースさんが当時借りていた神戸市内のマンションで聞いた。
日本では、西洋やインド、アフリカなどの顔かたちの人々は何世代日本で暮らしたところでいつまでも「外人」でしかない。そんな外人たちの思いに心が寒くなった。
●恐れていたことが子どもの社会でも起きた
ライースさんは15歳のとき日本にやってきた。外交官だった父親が日本大使館勤務になったからである。父親は少年ライースに日本の学校へ行くよう命じた。「将来、日本とパキスタンとの架け橋となれ」というのが父親の厳命だった。
学生服を着て都立新宿高校に通い、横浜国大を卒業した。東大大学院の研究生を経て、いくつかの日本企業で働いた。働いたといっても当時の日本企業で外国人を正規社員に採用するところはなかった。どこまでいっても嘱託だった。33歳になって初めて林原生物化学研究所が正規社員としてライースさんを受け入れた。林原は一時期、インターフェロンの開発で世界の先端を行っていた企業である。
岡山はライース一家にとって住み心地のいいところだった。少なくとも子供たちが小学校の低学年まではそうだった。娘たちは生まれてすぐ岡山にやってきて、岡山で育った。パキスタン語より岡山弁の方が上手だったし、パキスタンのカレーよりも岡山名物の「祭りずし」の方が好物だった。
お姉さんのアエシャは1年生の時はたくさん友だちがいて、同級生が家にもよく遊びに来た。子供たちには差別の目も区別もなかった。ところが2年生になったころから様子が変わった。アエシャはだんだん外で遊ばなくなった。妹のアスマも姉と行動を共にするようになった。
ライースさんの一番恐れていたことが子どもの社会で起きたのだ。「目が大きい」「足が大きい」「背が高い」「色が黒い」。目立つから仕方がないとはいえ、パキスタンから来た子供たちの小さな胸を痛めた。
ライースさんはこう言っていた。
「小学校の2、3年生というと、ものを見分ける観察眼ができてくる。形や色、大きさの違いに敏感だ。この見分ける力は成長に必要なのだが、違いだけでなく、同時に似ているところにも気付く目を養わなければならない。優れたところを認め合う勇気も育てなければいけない。それはみんな親の義務だど思います」
●またひとりぼっちになったパキスポン
ずっと忘れていたライースさんを思いだしたのは、古い書籍を整理していて「外人課長のニッポン企業論」(PHP)というライースさんの著書が出てきたからだ。
10年ぶりに岡山の林原生物化学研究所に電話したら、ライースさんは元気そうだった。「なつかしいね。僕は50を越えちゃったですよ」などとふざけていたが、家族のことを問うととたんに声が沈んだ。
「娘たちはもう大学生よ。でもかみさんと一緒にアメリカに行っちゃったんですよ。僕はまたひとりぼっちよ」
もはや理由は聞かなかった。お父さんに「日本との架け橋になれ」と言われ、40年間頑張った。日本人とパキスタン人の合いの子として自らを「パキスポン」と呼んだライースさんに、一日本人として返す言葉を失った。