執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

宮沢喜一氏は、平成の高橋是清を標榜して二度目の大蔵大臣に就任した。失礼ながら高橋是清とは格が違う。ともに首相を経験しているが、高橋是清が2・26事件で暗殺されたときは7回目の蔵相だった。一番違う点は宮沢氏の周辺に暗殺されるという危機感がないことである。
明治36年(1904)12月、日本銀行副総裁だった高橋是清は曾弥荒助蔵相に呼ばれ日露が開戦した場合の戦費の調達方法を相談された。高橋是清はただちにロンドンに向かい、翌年2月のロシアへの宣戦布告を控えてイギリスの銀行団に資金調達を持ちかけていた。日本は自前の予算で戦争できるほど国力はなかった。2億円の増税と7億円の国債発行に加えて、イギリスとアメリカ、ドイツから8億円借金をした。
最初の1000万ポンドの外債発行は1905年5月だった。すでに戦火は開かれていたから泥縄である。不思議な国家といえる。500万ポンドはイギリスの銀行団、残りの500万ポンドはニューヨークに拠点を置く金融業クーン・レープ商会の総支配人ジャコブ・シフが引き受けた。
銀行団の最初の300万ポンドの発行条件は年利6%、額面100ポンドに対して発行価格は92ポンドで5年返済だった。平均利回り8%程度である。2回目は1200万ポンド。3回目3000万ポンド、4回目3000万ポンド。計8200万ポンドが調達された。
2回目以降はクーン・レープ商会が引き受けの中心となった。ユダヤ人が日本に協力的だったのは理由がある。ロシア国内のユダヤ人が迫害され、戦争ではいつも戦闘の第一線に立たされ多くの犠牲者を出してきた。ただ同じユダヤ系でもロスチャイルドは別の理由で日本への協力に消極的だった。
そのときの担保はびっくりすることに、日本の関税収入だった。「専売のたばこ収入を担保に」という話まであった。戦費の半分を戦いながら調達していたという日露戦争ときの日本政府の悠長さにはあきれるほどだ。カネもないのに当時の一流国に宣戦布告した悠長な日本の外債が飛ぶように売れたそうだからこれも不思議な話である。
1904年5月17日の東京朝日新聞は日本の外債発売のニューヨーク、ロンドンでの人気ぶりについて次のように伝えた。
「新募日本公債はニューヨークにおいては5000万円の募集に対し、2億5000万円の応募高、即ち需要額の5倍にして、ロンドンにおいては5000万円に対し、15億円、即ち需要額の37倍なる旨昨日入電ありたり」(三好徹著「明治に名参謀ありて」)
三好徹によると、高橋是清とシフとの出会いは、第一回目の500万ポンド分の外債発行が決まったパーティーの席上だという。銀行団よりも確実な一人のユダヤ人金融業として紹介された。高橋是清はシフに目標額が本当は1000万ポンドであったことを打ち明けていた。翌日、シフから500万ポンドの外債発行引き受け受託の連絡があった。
二人の間にどんな会話があったか知らない。だが、一夜にして500万ポンドの引き受けを決断できる男と極東の危機を双肩に担った明治人は肝胆相照らしたに相違ない。人が国際情勢を動かしていた時代であるが、現代日本人は明治時代における日本とシフというユダヤ人との関係が並大抵でなかったことを記憶に留めておくべきだ。
明治時代の国家がより私的だったし、国際関係もまた私的だった。だが21世紀末の世界政治を揺り動かす国際金融資本もまた、本音の部分では依然として私的であるからだ。