執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

●ホワイトナイトだった西陣の旦那衆
「京セラの稲盛さんが言っていたんだが、京都には旦那衆ってのがいて若いころ本当に世話になったそうだ。いわゆる祇園とか先斗町とかのお茶屋遊びを支えていた人たちだ」
「大蔵省の中島義雄のように飲ませてもらったという話じゃないんだ。困ったときに投資してくれたらしい」
「多くが西陣の経営者でいまで言うとホワイトナイト。ベンチャーキャピタルだ。京セラの場合は事業が軌道に乗って、当時の投資が何百倍にもなって恩返しになったんだ」
そんな先輩記者からの話を聞いて、1994年に台湾でハイテクランドである新竹科学工業区を取材した時の話を思い出した。半導体設計会社、Weltrendの会長である蔡焜燦氏が語った創業のきっかけである。
「台湾には小金持ちが多いんですよ。アメリカ大手企業で半導体設計をしていた親戚を呼び戻して企業をつくろうということになって仲間10人が出資したんです。当初の資金を少し多めに出したため、私が会長を務めることになりました。ウナギの稚魚を日本に輸出する仕事にかかわっていたので、会長と言っても本当は半導体のことなど分からないのです」。
Weltrendの配当率は当時としても30%と高率だったが、昨年、蔡さんが来日して語ったところによるといまでは60%に達しているらしい。なるほど台湾ではホワイトナイトがそこかしこにいて、新しい投資話に華を咲かせてきた。多くは在郷の地主層だ。台湾経済がアジアの通貨危機以降も成長路線を崩していない理由もここにある。(蔡さんの話は1998年02月26日「 「老台北」台湾に生き続ける50年前の日本人のDNA
」)
シリコンバレーの八木博さんから聞いた話でも同じだった。シリコンバレーにはベンチャー企業とベンチャーキャピタルをつなぐ専門家集団がいくつもあって、技術と資本と経営がうまくかみあっているという。とうも昨今の日本ではカネやアイデアがあっても起業につながらない。化学反応で言えば「触媒」、生体でいえば「酵素」が欠如しているようだ。
京都府福知山で”植物インスリン”を売りだそうと日夜奮闘しているユーステクノの松山太さんが語ったことがある。
「最近の貸し渋りでどこの金融機関も金を貸してくれない。だが銀行がカネを貸さないのはまだいい。でもベンチャーキャピタルってのはもっとひどい。投資を申し込むと審査がすごいんだ。バランスシートとか担保だとかばっかり話題にして、こちらのアイデアの部分には一向に耳を貸してくれないんだ。いかに僕のところに投資すれば失敗するか、あらばっかり捜しているのがよく分かるんです。バランスシートがよければ銀行がカネを貸してくれますよ」。
1990年代の日本はどこもかしこもそんな状態だと思う。
●投資から投機に変質した1970年代
なぜそんな日本になったのか考えた。いまのところ仮説でしかないが、全国各地にいたはずの旦那衆がホワイトナイトを辞めてしまった理由が証券市場の改革にあったのだと思っている。
日本の証券市場で時価発行が登場したのは1970年代である。それまでは額面主義だった。多くの企業はいまでも額面は50円だが、時価発行が認められるまでは株価が80円になっていようと100円でも増資の時は、割り当て増資といって既存の株主に対して優先的に50円で新株を購入する権利があった。
配当が1割あり、新株が”原価”で買えるのだから誰もが割当増資に応じた。額面主義は日本特有だったが、それなりに個人株主を育む意味合いがあった。配当の1割は上場基準のひとつだったから、1割=5円配当は上場企業にとって守るべき最低のルールだった。
ところが、時価発行制度を導入した際、配当基準だけは額面時代の「1割配当」が残った。新株発行が企業にとって圧倒的に有利となり、投資家には不利なこととなった。2000円で新株を発行しても配当は5円しかなかったら投資家は市場から逃げ出すに決まっている。日本の証券市場での個人投資家の比率が減少し始めるのはこの1970年代である。時価発行が始まってからの証券市場はますます企業だけものものになった。
投資家が着目したのは土地である。故田中角栄首相の登場でときあたかも土地投機時代を迎えていた。企業への投資より有利な”商品”が出現したのである。土地への投資でもうけたのを全面否定するわけではない。しかし、土地投機では開発に群がるブローカーがあちこちに出現した。
一方で日本の証券市場を支えてきた旦那衆たちは日本経済の東京一極集中で自営業が傾き、投資の余裕をなくしていた。だから、土地投機には政治家もやくざも入り乱れた。特に時価発行増資により潤沢でしかも配当負担の軽い資金を手にした企業もまたこの新規市場に参入した。つまり戦後日本経済を支えてきた出演キャストの入れ替えが順次起きたのではないかと考えた。
●開発予定地への土地投資はトリプルA
企業への投資は株である。失敗も成功もあったが、土地の場合、値上がりは全国的に波及した。一カ所だけが上がることはなかった。銘柄は開発予定地である。だから右肩上がりであるかぎり投資対象として株式より”安全”だった。開発計画を事前に知りうる立場にある政治家が絡めばなおさらだった。格付け機関にたとえれば開発予定地への土地投資はトリプルAだった。
1970年代が多くの意味で戦後日本の転換点だったことはこれまでも指摘してきた。キャストの入れ替え説を唱えるのは初めてだ。メザシと緊縮財政で有名になった故土光経団連会長が酒席でよく話していたのは「経済人も官僚も政治家はいまもむかしも料亭に入り浸りだが、少なくとも昭和40年代までは天下国家が話題となっていた」ということだ。どうも高度成長の次の世代を支えるステーツマンが日本では育っていなかったらしい。
話が回り道にそれた。企業への投資の妙味を忘れた1970年代以降の日本に戻す。時価発行制度を導入したときの上場基準である。1984年ころ京セラの年間配当は50円と日本企業としては群を抜いていた。ある決算発表の席上、経理担当役員が「うちは100%配当をしています」というようなことを言ったのに対して、「100%といっても株価が8000円では1%の配当率にもならないではないですか」と反論したことを思えている。
店頭登録した化粧品のノエビアの友人が「株式公開前から社員株主制度があって、毎月1万円で200株もらえた。配当が1株5円だから、1000円の配当金になった。でも公開後は同じ1万円で5株しかもらえなくなり、配当はたった25円にしかならなくなった」としみじみ話した。
町の旦那衆だって、社員だって、国際的投資家だったみんな同じだ。株式投資はハイリスクハイリターンが原則だ。リスクだけ負わせてリターンがなければだれも投資しない。それよりゲーム感覚で起業家層を育んできた町の旦那衆を疲弊させた日本経済こそが問題なのかもしれない。