執筆者:神保 隆見【アジア国際通信主宰】

多様な人種が同じ商品を購入

イギリスでは、鉄道は都市と都市とを結び、すでにそこに住んでいる人々を大量に輸送するために建設された。しかし、アメリカの鉄道は、開通すれば利用する人口が生じるだろうといった希望の下に建設され、「出発点も終点も不明確なままに走る」こともしばしばあった。

ちょうど南北戦争の時期に、鉄道は西部をめざましい速度でおおっていった。鉄道は人々を引きつけるのに成功し、また人々が必要としたり生産するものを輸送することによって繁栄した。

1919年、イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルは「工業製品に対するアメリカの需要の同質性」に強い印象を受け、「アメリカの生活においてほとんど支配的な要素となっている人種的な多様性さえも、この同質性を少しも減じてはいない。感覚、生活様式、さらには職業においてさえ、スカンディナヴィア人はイタリア人と、あるいは土着のアメリカ人はポーランド人と、非常に違っているとはいえ、それでも彼らはほとんど同じ商品を購入している。もとより気候の相違が酌量されているが、彼らは同じような衣服、家具、器具を買っているのである」と指摘している。

『ワード』や『シアーズ』の顧客から成るこの消費社会は,南北戦争終了時にはまだ存在さえしなかったが、半世紀そこそこの内に数百万人の顧客を数えるまでになった。

20世紀中葉には、『シアーズ・ローバック社』はこの国最大の小売業者となっている。明らかにワードの事業から影響を受けず、まったく別の道をたどりながら、ワードよりさらに大規模なものになる「通信販売事業」に乗り出したのが、リチャード・ウォーレン・シアーズであった。この若者は、他人の資本の利用および組織、とくに鉄道の活用の仕方について鋭い洞察力を備えていた。

鉄道駅長の時シアーズはチャンスを見出した

1886年にシカゴの宝石会社が送った時計の包みが、近くのレッドウッドフォールズで宛先人により受領を拒否されるという出来事が起こったが、鉄道駅長のシアーズはここに彼のチャンスを見出した。

当時、卸売り業者が小売商人に委託販売用の商品を送ることが一般に行われていた。実際に卸売り業者は注文を受けていない商品を発送して、在庫品を処分しようとすることが時々あった。あるいはまた彼らは虚偽の住所に故意に荷物を送り、鉄道の駅の係員が配達不能と連絡すると、係員にその商品を「半値」で提供したいと申し出たりした。この方式にしたがって、シカゴの宝石会社はシアーズに「半値」で売りたいと申し出て来た。

6ヶ月間におよそ5000ドル儲けて、シアーズは駅長の職を辞し、ミネアポリスに『R・W・シアーズ時計会社』を設立した。彼の独創的な販売方法の1つに「クラブ計画」というのがあった。これは38人がクラブを作り、各人が毎週1ドルずつ供出し、毎週クジで1人が時計を手に入れる。それを全員に行き渡るまで38週間続けるというものだった。こうした「クラブ・メンバー」が全国に2万人を超えるようになっていた。

満足していただけなければ返金いたします

最初から彼は、利ざやは小さいが大量に売り、資金の回転を早くする方式をとった。これはすべて、絶えず拡大する消費社会に大々的に宣伝することにより可能となった。時計製造業者で端物印刷業も営んでいたアルヴァー・カーティス・ローバックの助力を得、宣伝の才能を発揮した。彼の商売は、「満足していただけなければ返金いたします」といった良心的で誠実な保証と、「この商品は世界で最良の品」であり、「永久に使えるでしょう」といったけばけばしい大げさな主張とを織り交ぜたカタログをもとに築かれた。

1893年,『シアーズ・ローバック会社』という社名が用いられるようになり、衣服、家具、ミシン、乳母車、楽器などを含む広範な商品を扱うようになり、カタログも196ページの厚さになっていた。

巨大な通信販売機関の発展に伴い、カタログは消費者社会の急速な成長を促進する新しい出版物の役割を演じた。消費者を説得し、引きつけなければならなかったので、商品に関する情報提供以上の内容が盛り込まれ,やがてカタログは「アメリカの文化」にまで成長していくことになる。

人々の手にカタログを行き渡らせることが最初の課題であった。この点、「地方無料郵便配達制度」が大きな恩恵をもたらした。シアーズが成功を収めた企画の1つに、カタログの配布作業を引き受けた人々に24冊まとめて送る方式があった。「配布人」がカタログを配った新しい顧客の購入については30日間記録がとられた。配布人は購入を促進した額に応じて報酬を受け取った。

カタログ配布量が驚異的に増加

カタログの配布量は、1897年(数量の明らかな最初の年)のおよそ31万8000部から1904年春季カタログの100万部以上,翌年春季の200万部以上、1907年秋季の300万部以上へと驚異的なまでに増加した。カタログの配布量はその後も着実に伸び、1920年代後半には各季について700万部に達した。

1927に『シアーズ・ローバック』は1000万通の回状,1500万部のカタログ、2300万部の中間特売カタログ、その他の特別のカタログを発送し、その総計は7500万部にのぼった。配布部数の増加とともに、カタログはいっそう大きく,鮮明になった。1903年にシアーズは専用の印刷所を設立し,カタログの質は年毎に改善されていった。カラー印刷ができるとともに軽くて郵送料が安くてすむ新しい紙を製造しなければならなかった。

カタログは「農民のバイブル」「子供達の教科書」

植民地時代以来,アメリカ人はしかつめらしい論文よりは年鑑、新聞、雑誌、手引き書といった分野で優れた手腕を発揮してきた。体系だった不朽の労作よりは,当面の問題に関連したトピック的なその場限りの出版物の方が、アメリカの生活をいっそう端的に表現していた。

信心深い農村の消費者が後ろめたさを感じることなくカタログを「農民のバイブル」呼んだのは、決して偶然ではなかった。カタログは新しい農村消費社会のバイブルとなり、多くの農民が聖書よりもワードやシアーズの大冊子にいっそう親しんで生活するようになっていった。

小さい子供が日曜学校の先生から、十戒はどこにのっていますかと質問された時、躊躇せずに「シアーズ・ローバックです」と答えたという話はよく知られている。

今や農村の子供達は新しい消費社会のバイブルを通して勉強していた。農村の学校で,子供達はカタログを使って読み書きを教えられ,注文用紙をうめたり、項目を足したりしながら図画の練習をし,郵便配達区分地図を見ながら地理を習得した。

子供用の本がほとんどない家庭の母親の多くは、カタログの絵を見せて子供をあやしたりした。アメリカ農村の子供達は、シアーズやワードの大きなカタログを現実の世界のあらゆることについて学び取れる本と考えた。

アジア国際通信 アメリカ特集 5 (NO.167,97/6/1)から。神保氏のホームページhttp://www.geocities.co.jp/WallStreet/2070/