レイオフを深刻に考えないアメリカ社会
執筆者:八木 博【シリコンバレー在住】
米国企業では、業績が良くてもレイオフをすることがあります。そして、もちろん業績が悪ければなおさらですが。このような状況の中で、レイオフされた人にとってはずいぶん精神的に参るのではないかと思うのですが、私の知っている人達は、そんなに深刻にはレイオフを感じていないように思えます。今回は、そのメカニズムとロジックを検証したいと思います。
二日酔いや居眠りは立派な解雇理由
レイオフの時の理由で、実際に多いのは「あなたの現在携わっているポストは、経営の観点から廃止されます」という通告によるものです。これは、人によって携わる仕事が明確になっているので、その仕事が無くなれば、誰が失業するか明確になるわけです。
そして、経営者はその仕事のもつ意味や価値をきっちり押さえることができるので、経営方針の変更や業績への反映などができます。そして、場合によってはその部分の仕事を、よその会社に持って行くこともあります。それが、米国での普通のレイオフです。ここでは、個人の能力については、一切触れられていないことに、ご注意ください。
それ以外にも厳密にレイオフではないが、解雇される場合があります。もちろん、勤務態度が悪ければ、当然クビになります。そのためには、上司(たいていはマネージャーですが)は常に部下の勤務態度をチェックして、悪いところがあれば、注意します。そして、何回か続けて起ると、Letter of Warning(警告書)という、どこが悪いかを具体的に記述した文書を本人に渡します。
そうすることで、勤務態度が悪いと言うことを、文書で示します。もちろん部下は、内容が間違っていれば訂正を要求できますし、それをしないということは、内容を認めたことになります。これは、なかなか日系企業では実施されていないらしいのですが、こちらでの雇用継続の評価手段として良く使われています。
これとは異なる面ですが、日本人にとっては意外かもしれないのは、二日酔いで出社することと、勤務時間中(会議中ももちろんですが)に居眠りをするのは、立派な解雇の理由になります。二日酔いになったときにはどうするか、それは会社を休むことなのです。米国企業で勤務を考える方は、十分ご注意ください。
レイオフの対象ではない人種や性別、個人の特質
レイオフも差別は含んではいけません。ですから、正当な理由が無いレイオフは、従業員から訴えられることがあります。人種や性別、個人の特質などはレイオフの対象にはできません。そのために、企業は従業員を随時評価しています。
そして、従業員は自分のボスに対して、最近の自分をどう思うとか、仕事の報告やコンタクトを増やします。ただ、仕事の内容と責任が明確になっているので、自分の仕事の進捗や結果がわかれば、ある程度自分の処遇と言うのも推定できることも事実です。その意味で、常にプロとしての技量を磨き、仕事に集中するのは当然と考えられています。
レイオフされないためには、成長する企業に入るのが一番です。そして、そこの新分野で頭角をあらわすことが一番の早道だと思います。勤務態度が悪いのはどうしようもありませんが、自分のプロとしての技量を上げるにはいろいろな方法があります。
まずは、就業時間後に行ける、Community CollegeやAdult Schoolがあります。それ以外には、インターネットの大学、セミナープログラムなどそれはそれは数多くあります。米国では、会社に入ってからも人々はどんどん勉強します。MBAも会社に所属しながら取ると言うのが普通ですから、社会人でも勉強します。
そして、その時に会社以外の人とのネットワークも作られ、それがその後のビジネスで役に立つことも多いそうです。それにしてもプロとしての仕事でしか評価されない社会ですので、一般的には年上の人のほうが仕事に詳しくなります。
典型的な例としては、新聞記者があります。記者としてキャリアーを積んでゆくことを選ぶ人も多くそのため、署名記事という記事を書く記者のなかには、社会的な尊敬を受ける人達も少なからずいます。ここは、日本の昇進制度とは大きく違います。すなわち専門性の進化も昇進であり、管理部門はひとつの機能という位置付けであり、そこは管理のプロがする領域なのです。
レイオフ後も続くネットワーク
レイオフされても、会社からの都合だったのですから、会社の友人とのおつきあいは継続します。そして、レイオフされている間にも、学校に行ったりして技量を磨きできれば、再就職口には、もっと良いところを狙います。ですから、会社を辞めさせられても、もとの会社に出入りする人は多いですし、そこで培われたネットワークはいつまでも大切にされます。
それは、ある会社の傘の下で肩を寄せ合った人達が、別の傘のもとに入って行く姿でもあり、そこで見えてくるのは、傘はあくまで傘であり、いつまでもいられるものではないと言う認識と、別の傘に入っても、個人同士は相変わらず友人関係を保てると言う、社会風土です。