執筆者:高名 芳夫【】

●よみがえった千枚田が投げかける日本的システムの課題

4月26日付け読売新聞朝刊に「よみがえる千枚田」という記事が記載されていた。和歌山県の千枚田「蘭島(あらぎじま)」が4年ぶりに美しい水田風景を取り戻す。農道が整備されていないために一部農家が耕作を中断していたが、町が農道建設を約束、一斉に田植えをすることになった。以前、「蘭島」は「美しい日本のむら景観コンテスト」で農水大臣賞に選ばれたことがあった、という内容である。

伝統文化はその時代的背景の中で必然性によって生じたものであり、ほとんどは生産手段の遅れや貧富の差の激しい身分制度が前提で存在していた。本来は学術的な価値しかなく、博物館や趣味の世界で維持されるべきである。採算性を重視しなければ社会の中に差別や閉鎖的な制度を残すばかりでなく、社会全体の非効率を招く結果になるからだ。

社会的にはすべての伝統的な風景や文化は「大切にしなければならない面」と「捨てなければならない面」の二面性を持っている。

捨てなければならない面は、社会の近代化、効率化を阻害するからだ。大切にしなければならない理由は、過去の経験や知識を活かすためである。博物館で保存しなければならないのは、現時点での取捨選択の判断に誤りがある場合の保険のようなものである。

伝統的文化の保存を訴える人は多いが、個人的な趣味や道楽の段階に留めるべきで、感傷的な理由や好悪の感情で、社会的に訴えるべきではない。

日本に比べ、欧米に伝統的な風景や文化が色濃く残っているのは、この原則が守られており、守れる社会的なシステムがあるからだ。社会的にも市場経済の原則が進んで、採算性をリーズナブルに判定できる経済システムがあり、個人的な努力が可能な税制(税率や寄付控除)がある。日本で「千枚田」を残すのにはそこまで議論を深める必要がある。

●日本が失いアメリカに残る”木を割る”発想

日本は木の文化を持つ国といわれている。日本の伝統的な技術に木を割る技術がある。鋸が世界的に普及したのは10世紀だが、日本では木を割る技術があったため、13世紀になるまで鋸の普及が遅れたという説もある。

木を割る技術の特徴は、細胞である導管を切断せずに木を加工することで、耐水性が良くなることである。現代日本ではこの技術は既に過去のものとなっているが、アメリカでは未だに残っている。林業の盛んな西海岸のカスケード地方では、ほとんどの家が屋根の瓦に木を使っている。割った木だから屋根に使えるのである。大きな鉈状のものをフライホイールで上下させ、短く輪切りにした丸太を手で動かしながら割っている。

アメリカの製材所は日本に比べ規模が大きく、機械化が進んである。一方で手工業的な生産も存在できる環境がある。採算を可能にする柔軟で合理的な社会システムがそれを可能にしている。

製材所の規模の大きさと機械化で、一見無駄な木の加工をしているように感じるが、建築のシステム化や残材や鋸屑を有効に使うことで、全体の歩留まり率は日本の倍以上である。残材や鋸屑は製紙チップや圧縮した人工木材の原料、腐葉土の原料として使われている。

日本で植木鉢に使われている松の皮は、腐葉土にされたチップのうち、一番腐食が遅い皮が花壇の表面に残る装飾的な特色を真似するためにわざわざアメリカから輸入し、使っているのである。

無駄を無くした結果の装飾性と、装飾のためだけのクズを輸入する社会の差が、現在の日米の風景や経済の違いを表している。

国民の感情や意識だけで伝統的文化や風景が残るのではない。必要なのは国家的な政策や予算措置ではなく、合理性のある選択が可能な社会システムそのものである。