日本とアジアを語るうえでこの10年間の最大の変化は、アジアの人々がもはや日本を仰ぎ見る存在として見なくなったことである。フィリピンの国際貿易公社(PTTC)の日本支社長のクリスチン・クナナンさんは語る。
「かつてフィリピンにとって資金や技術で協力してくれるのは日本以外になかったのです。国民の目が日本にフォーカスされていたといっていいでしょう。ところがフィリピン経済がアジアの成長トレントに乗るようになって多くの国から投資が来るようになりました。協力相手はシンガポールであり、香港もある。中国だってベトナムだって相手になってくれる。日本はいつの間にかワン・オブ・ゼムになってしまったのです」
 この十数年の変化は恐ろしく速い。そもそもアジアのエリート層はみな、欧米の一流大学や大学院を卒業し、英語での生活が日常化している。もしかしたら意識の半分はアジア人でないのかもしれない。そうしたアジアの若いエリート層が日本を見る目は欧米人のそれと極めて近い。昨年来の通貨暴落でアジア経済は疲弊しているが、日本は助ける力を失っている。経済力だけが日本とアジアを繋ぐ絆だったのだとしたら寂しい。

 留学生が財産
 アジアの学生が希望する留学先はアメリカのほか英国など旧植民地の宗主国の比率が極めて高い。日本は二番手、三番手である。第一の理由は言語だろう。日本語だと一から勉強する必要があり、仮にマスターしても現地の日本法人で取り立てられるのが関の山。しかし、英語ならば全世界を相手にビジネスチャンスが広がる。
 でもそれだけではないだろう。日本に留学した経験を持つ先輩らから伝わる日本のイメージが決してよくないことにもそもそもの遠因であるような気がしてならない。欧米社会では留学先での就職に対して寛容であるのに対して、日本では大学を卒業しても日本企業の門戸は非常に狭い。さらに日本での住宅事情の悪さを考えれば、仮に日本留学体験したアジア人がいたとしても「好意」を抱いて帰国するケースは稀だ。
 これは日本がアジア人を日本列島から排除し続けてきた結果である。中曽根首相は80年代半ばに訪中し、胡耀邦総書記との間で「留学生10万人プロジェクト」を華々しく打ち上げた。日本への留学生が1万人程度しかいなかった時代である。若者の交流こそが将来の二国関係を築くという発想は非常に前向きだったが、政策がついてこなかった。あるアメリカの外交官が語った自慢話を思い起こした。
「アメリカは毎年10万人を超える留学生を迎えている。20年ならば200万人だ。アメリカに好意を抱いてくれる外国人が全世界に数百万人いると考えられている。これこそがアメリカ外交の神髄だ」

 寛容精神の不足
 アジアの日本離れは決して言葉だけの問題ではない。過去の歴史でもない。外国人に対する寛容の精神が不足し、外国人の才能を日本社会に取り込もうとする意欲が決定的に欠如しているからだ。平均すれば、アジア諸国の経済は日本より遅れているかもしれないが、新卒の日本の学生がアジアの新卒生より優れているといえる要素は一つもない。社会人一年生というレベルではまったく変わらないはずだ。アメリカ帰りの留学生がアジア経済の中枢を支えているという現実を振り返るだけで日本社会がアジア人を取り込まない不条理を理解できるはずだ。
 首相の諮問機関である経済審議会が次期10ヵ年計画に盛り込むべき課題として「移民労働力の受け入れ」を掲げた。実現への道のりは遠くハードルはまだ高いが、有識者の意見として明示できたことは勇断だ。

 福祉の負担担う外国人
 10年ほど前にドイツの労組幹部にインタビューをしたことがある。くだんの幹部氏は「外国人労働力なしに西ドイツの60年代の成長神話はなかった」ことを打ち明けた。当時の西ドイツはユーゴスラビアやイタリアだけでなくトルコといった周辺諸国から多くの労働力を導入した。
 労働力として西ドイツに渡った人たちはやがて家族を呼び寄せた。結婚し、子どもを生み、定住するようになった。いまでは外国人が労働人口の一割を超えるようになっている。単なる労働力として受け入れたはずだった外国人が増えることによってドイツとしてのアイデンティティーの問題も浮上した。
 だが幹部氏はこうもいった。
「日本では高齢化が急速に進み、若年層による将来の負担増が問題になっているが、ドイツでは住み着いた外国人もまた年金など高齢者に対する負担を担ってくれている。感謝しなければならない」。子沢山のトルコ系の人々がいなかったらドイツでも高齢化のスピードが日本並みになっていたはずだとも語っていた。
 当時、日本経済はバブルの頂点で、このままだと労働力不足で経済成長力を失うとの危機感が産業界にあった。担当していた労働省でも産業界でも外国人労働力導入をめぐる論議が盛んだったし、論壇でも西尾幹二早大教授と評論家の石川好氏がその賛否をめぐって興味深い論争を展開していた。

 受入れは先進国の責務
 先に発表した経済審議会の政策課題では少子化に伴う労働力不足の解消という観点から、永住を含む移住労働力の受け入れを積極的に検討すべきだとしている。このなかで富士ゼロ。クスの小林陽太郎会長は「日本経済の富裕さが多くの人を引き付ける結果として、移民をある程度受け入れるのは責務」と先進国としての自覚を促している。萬晩報としては、これに「異文化なものとの出会いが社会の進歩や活力を生む」という視点を付け加えたい。
 労働省は卯年末の外国人労働力について不法就労を含めて66万人と推定している。大阪商工会議所の副会頭である小池俊二ニサンリ卜産業社長は「在日朝鮮・韓国人、正規の就労ピザ取得者に不法就労者を合わせると百万人を超す」と推定する。いずれにしても人口規模でいえばドイツの10分の1でしかない。
 日本は外国から先進の知識や技術を受け入れて発展してきたが、移民の大量受け入れは白鳳時代まで遡らなければならない。外国人受け入れを反対する多くの意見は民族の融合より民族間で起こるであろうトラブルにばかり目を奪われるが、小林陽太郎氏がいうように、ある程度の受け入れはもはや豊かな国際国家としての義務である。

 異質を受け入れる度量

 ここ数年、日本は景気低迷の長期化でかつてない雇用問題に直面しているが、一方で中小企業では慢性的な人不足が続いている。かつて3Kと嫌われた作業現場や長年の修行を必要とする熟練労働にはもはや人が集まらないという事情もないわけではない。
 外国人が日本で多く働くようになれば、彼らはまず日本語を取得しなければならない。日本の文化もある程度理解しなければならない。日本に合わせることが彼らの義務となる。もちろんあつれきは生まれるが、結果的に日本への理解が進むことでもあり、日本語を語る人口が増えることでもある。いま日本に求められているのは国内に異質なものを受け入れる度量を身につけることなのだ。
 萬晩報の「移民受け入れで活性化を提唱した経済審議会」には厳しい意見が多かった。どこの国でも観光目的以外の外国人の受け入れには保守的なものだが、萬晩報を読んで下さっている読者の中にもやはり、外国人の導入にはハードルが高いということなのだろうか。
 でもよく考えていただきたいのは、スポーツの世界でさえも、もはや外国人なしには試合が成り立たないのが実情だということだ。
 外国人受け入れの議論では必ず、単純労働者が問題にされるのだが、単純労働者であってもやがて熟練し、いつかは指導的な立場に立つはずであるし、お金を貯めてベンチャー企業を打ち立てる可能性だってないわけではない。その子どもたちにいたってはますますその可能性が大きいのかもしれない。
 萬晩報は、人間を単純に知的労働と肉体労働に分けて考える立場には立ちたくない。いまの日本ほど異質なものとの出会いを必要としている時はないと思うからだ。
  【伴武澄さんの著書】「追跡N-ES経済」教育社、「21世紀のキーワード」TBSブリタニカ社、「コメビジネス戦争」PHP、「日本がアジアで敗れる日」文芸春秋社「萬晩報縮刷版1」(かぼちや)