執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

●3000戸程度しか残っていない養蚕農家
福井県農業共済組合連合会の小野寺さんに「さよなら養蚕-福井から養蚕が消えるまで」という本を送ってもらった。羽二重王国といわれた福井県で最後の養繭の出荷があったのは1995年10月のことである。養蚕業がなくなってはやくも2年半を経た。

養蚕がなくなった県は福井だけではない。ピーク時、日本には80万もの養蚕農家が存在したが、もはや3000戸程度しか残っていない。農家が300万戸だから1000戸に1戸しか養蚕をしていないことになる。生糸はかつて日本の輸出を支え、日清、日露戦争の戦費を賄った産業だったが、養蚕はもはや生業とはいえない。

小野寺さんの「さよなら養蚕」にはそんなノスタルジアが行間ににじみ出ていて、祖父の時代の日本人の労苦がしのばれる。しかし、養蚕業はここ数年で産業として成り立たなくなったわけでなない。筆者が農水省を担当していた95年には2万家まで減少していて、産業としての保護をやめる論議が盛んだった。

日本は伝統的産業としての養蚕を、長く蚕糸の価格面から保護してきた。農産物の自由な輸入を制限して高値維持を図る方法は、コメ市場開放後のコメ価格でも行われている。価格安定事業は競争力回復のための政策としては最悪の部類に属する。延命策でしかないからだ。

価格維持政策が生糸の価格を押し上げ、結果として和服の価格をべらぼうなものにした。農水省は農家保護の名の下に延命策のみにきゅうきゅうとし、日本人の衣服である着物を日常から遠い存在にした。養蚕が残ってもだれも着物を着れないような高価格にしたのでは本末転倒だ。

●群馬県の業界団体からは取材拒否にあった
価格維持は早くやめなければいけなかったのに、誰もメスを入れようとしなかった。メスが入ったのは皮肉にも1994年末の行政改革論議の最中だった。

1994年末、共同通信社は「蚕糸価格安定事業を廃止へ」という記事を出稿した。上毛新聞や信濃毎日新聞など養蚕農家が比較的多く残っている地方紙は一面トップで掲載した。そもそもこの事業を実施していた「蚕糸価格安定事業団」という特殊法人が廃止の矢面に立たされていた。

予想通り、農水省から「事実無根」という抗議文を受け、所管の農水園芸局長が否定会見まで行った。当時としてはちょっとだけ勇み足だったかもしれないが、2年後に蚕糸価格安定事業は廃止となった。

一番ヒステリックに反応したのが養蚕農協連合会だった。群馬県の業界団体からは取材拒否にあった。「共同通信の伴さんですか。あんたのことは聞いている。声も聞きたくない」。養蚕農家を愚弄しているというのだ。だが、この事業団はそもそも8年間も価格安定機能を果たさず、生糸価格の暴落を座視していたのだった。どちらが愚弄していたかは歴然としていたが、だれも知らなかった。

群馬県の山村での養蚕の実態については、2月10日の萬晩報「公共事業/国会議員-土建屋-農村雇用-自然破壊の連鎖」で一部述べた。実際に取材した農家は、養蚕などやめたくて仕方がないというのが真相だった。

●農水省と業界団体が「農家代表」
長期間にわたる価格安定などは業界の体質を弱めるだけで「百害あって一利なし」というのが筆者の立場だが、百歩譲って「一利」を認めても「8年間も仕事をしないのでは存在価値はない」と考えた。日本の養蚕を存続させるためには「所得保障」しかない。コスト的にもそれが最も安い。養蚕とは関係ない事務員を多く抱えていた事業団は自らの存続しか考えていなかった。

農業問題で実際の農家の話というのは意外と伝わらない。日本では、土を耕しているわけでもない農水省の官僚や農協を代表とする業界団体が「農家代表」なのだ。そして選挙の時は土建屋が農家代表となる。

養蚕はいずれ日本からなくなる産業だろう。だが和服はなくしてはならない。京都の街を歩いていると、カタンカタンという反物を織る音がいまも聞こえる。