現代版メジチ家/フィリップモリスの社会貢献(HABReserch&BrothersReport)
執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】
●フィランソロピーはアフリカの水場のようなもの
「私はフィランソロピーについて『アフリカの水場の動物みたいなもの』と社内に説明している。野ネズミは水場のどこでどれくらい水を飲もうと自由だが、ゾウはそうはいかない。どこに立って飲むかさえ気を付けなければいけない。他の動物に迷惑をかけてはいけないからだ。ゾウは責任ある態度で示すだけでなく、他者から見て責任ある立場で行動していることを理解させる必要がある。それが社会貢献の原点だ」
フィリップモリスの文化スポンサーシップ担当役員に企業の文化社会貢献について聞いた事がある。この会社はいまでこそタバコと食品の世界的コングロマリットだが、1960年代、バージニア州の小さなタバコ会社にすぎなかった。そんな時代からモダンアートのなかのポッブアートという分野を育ててきた。アメリカでの企業フィランソロピーの草分け的存在だった。売上高が10兆円に近づいているいまも文化創造の”旦那衆”的存在である。 ニューズウィークはフィレンツェのメジチ家にあやかって同社を「コーポレート・メジチ」と称したことがある。
アメリカでは,1960年代後半、多国籍企業に対する批判への高まりから「社会的責任論」として企業によるフィランソロピー活動が台頭した。アメリカではもともと民間が経済や文化の発展の担い手として発展してきた経緯がある。強者として、あるいは富む者としての義務が問われ続けた社会でもある。権利だけを追い求めた戦後の日本社会との成り立ちの違いがある。
バブルの絶頂期の1990年3月、日本でも財界を中心に「企業メセナ協議会」が設立された。アメリカにはそのような企業団体はないが、英国にABSA(芸術助成企業協議会)が生まれたのが1976年。フランスのADAMACAL(商工メセナ推進協議会)の設立は79年だった。戦後、どこの国でも産業が高度化し、富が企業に集中するようになった。フィランソロピーの担い手は個人から企業に変わりつつあった。
日本の企業メセナ協議会は参加企業に対して売上高の1%相当の社会貢献事業を提言した。大蔵省は金融機関の接待攻勢には積極的に応じていたが、文化や社会貢献には関心を持たなかった。経団連が求めた法人税の軽減には一切耳を貸さなかった。アメリカでは企業所得の10%まで非課税で社会貢献できるし、フランスでも売上高の0.1-0.3%の非課税枠がある。日本は資本金や利益額で換算するややこしい仕組みだが、アメリカやフランスに比べて3分に1から8分の1規模の資金しか非課税で社会貢献に使えない。
●日本にも欲しい「コーポレート・メジチ」
どう考えても日本の方が欧米より企業中心の社会である。アメリカなどでは法人税の最高税率と個人所得税のそれはほとんど同じである。日本の企業役員の給与が欧米と比べて格段に低いのはこの税制によるところが大きい。役員専用車を使う場合でも、外部との接待費の支出でも会社経費にすれば税制上有利になるから、会社経費で落とし役員報酬は低いほうがその役員にとっても有利なのだ。余談だが、税制こそが社会を変える根元となる証左がここにある。日本が企業中心ならば、社会貢献もより多く企業に依存するのが道理でなないだろうか
日本の企業による「交際費」は年間3兆円を優に超えている。誤解があるかもしれない。大企業の交際費は税制上、非課税でない。非課税なのは中小企業だけである。対して政府の文教予算は年間4兆円である。これは教職員の給与も含めた額である。企業社会は課税ベースの「交際費」のほかに企業は会議費や販売促進費など非課税の項目でさらに多くの接待費を浪費している。これはほとんど把握が不可能である。筆者の勘では10兆円や20兆円はあるのではないかと見ている。
日本の企業税制がフィランソロピーに不利に働いていることは確かである。税制は政府の問題であるが、企業の巨額の接待費支出を考えれば、その10分の1でも、20分の1でも社会貢献活動に支出できないはずがない。01月21日(水)に書いた 「震災地で子供たちの心をいやす元プリマドンナ」の浮島智子さんも言っていた。「プリマドンナ自らが公演の度に切符売りまでしなければならない状況で日本ではバレエが育たない。人材はみんな海外に流出している」と。日本にも「コーポレート・メジチ」が欲しい。