1994年から1995年まで農水省を担当した。93年にコメの大凶作で、政府はタイなどから緊急輸入を行った。一粒もコメを輸入しないと言ってきた政府・自民党の公約はいとも簡単に崩れ去った。年末のウルグアイ・ラウンド交渉で日本はミニマムアクセスを導入することになり、日本のコメ市場はこじ開けられた。そんな時代に農水省を担当したことは記者冥利につきる。4月から担当してコメ卸から「コメが湧いた来た」と話しが多く出てきた。作況指数が70を切っていたのに、不思議なことだった。どうやら作況指数は作為的に少なめに操作されたのではないか。そんな記事も書いた。

 輸入米が入ることになると、食糧確保のため戦時中から続いていた食糧管理法の意味はなくなった。食管法廃止の記事を書いたときは正直、びびった。共同通信社が記事を配信するのは地方新聞。農業を基盤とするところが少なくない。「本当に大丈夫か」という問い合わせが相次いだが、当時に事務次官の「これまでの次官ができなかっただけ」という言葉が頼りだった。特ダネは正しければどこかの新聞が後追いしてくれるが、その時、どの新聞も後追いしてくれなかった。だが、食管法は翌95年11月に廃止された。社内の賞ももらえなかった。書くのが早すぎたのだ。食管法は、「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」に引き継がれた。コメ市場開放の代償として、政府は6兆円の緊急対策をつぎ込んだ。その金額もわれわれの特ダネだったが、最終的な金額は6兆100億円となった。役人というのは姑息なのだ。

 同僚の大辻兄が1年の軌跡を本にしようと言い出して上梓されたのが「コメビジネス戦争」たった。