第二次大戦による敗戦で日本は文字通り焦土と化した。都市だけでなく工場など産業基盤はことごとく破壊され、だれの目にも数十年で日本が先進国の仲間入りをする図は想像しがたかった。日本は軍事力の保持を禁止され、アメリカの軍事力の傘の下で守られながら戦後復興に乗り出した。連合国による占領は6年で終わり、国際社会に復帰、先進国グループである経済協力開発機構(OECD)への加盟、G7・先進国首脳会議(サミット)の一員として国際的地位を回復した。1980年代後半には日本の政府開発援助(ODA)の金額がアメリカを抜いて世界一になるなど資金や技術面での途上国支援は世界に誇れる規模に達したが、国際紛争の解決などお政治や軍事に関わる問題では十分にかかわっていないとの批判が内外から噴出しており、この10年はまさに国際社会にどう貢献するかが国民的課題となっている。
 国連復帰とガット加盟
 1951年のサンフランシスコ講和条約による独立は日本の国際社会復帰の第一歩だった。経済的にはフィリピン並みの一人当たりGNPからスタートで、当時は国際社会への貢献どころかアメリカなどから一方的に経済協力を受ける立場でしかなかった。政治的には既にアメリカとソ連による東西対立の構造が出来上がっており、国内の政治論争とは別次元でそうした枠組みに組み込まれた。
 国際社会への復帰という観点からいえばまだ片肺で、ソ連との国交回復を待たなければ国際連合にも加盟できなかった。サンフランシスコ講和会議ではソ連が加わらなかったためだ。1956年、鳩山内閣はソ連と国交を結び、翌年ようやく晴れて国連加盟が認められた。
貿易関税一般協定(GATT)へは1955年に加盟した。第二次大戦の発端となったブロック経済化を防ぐためアメリカが提唱した組織で、関税の引き下げを目指したケネディ・ラウンドや東京ラウンドなどで自由貿易の拡大を目指した。やがて輸出を経済発展のけん引役としてきた日本はガット体制の「最大の受益国」となったが、外国資本の国内進出を恐れてなかなか国内市場を開放しようとはしなかった。
 戦後日本経済はインフレに悩まされ、テイクオフのきっかけをつかみかねていたが、51年に勃発した朝鮮戦争による特需が追い風となり、1955年には生産活動も戦前の水準にまで回復した。経済白書は「55年をもってもはや戦後ではない」と宣言した。
 途上国向けの経済協力は、57年にスタートしたが、戦争賠償にからんだものが多かった。低利の円借款を供与する一方で、ダムや発電所建設の受注は日本企業に限定されていたため、民間企業もともに潤うという仕組みである。この方式は1980年代まで続いたため、海外からは「ひも付き援助」という批判を浴びた。またプロジェクト受発注にからむ現地政治家や国内政治家との汚職も多く発生し、途上国援助は必ずしも順風満帆ではなかった。
 高度成長期の日本は、1964年をもって先進国クラブといわれるOECDに迎えられ、IMFでも8条国へ移行、国際舞台での発言力を増していくことになる。もはや途上国ではないことを意味し、国内市場の自由化が迫られた。先進国仲間から求められたのは国際社会への政治的な貢献ではなく、市場開放など先進国としての経済的義務に限定されていた。世界銀行とは別個にアジアの開発に限定したアジア開発銀行(ADB)の設立には当初からかかわり、アメリカと並んで最大の資金拠出国となり日本から総裁が選ばれることになったが、国内的議論としてもアジア諸国への経済協力の域を出ることはなかった。独立国とはいえ、憲法で軍事力の保持を認めず、アメリカの核の下での安全保障を求めた国家の宿命ともいえよう。
 経済発展に自信をつけた日本は1967年には資本自由化をほぼ実現、GNPでは67年、イギリスを、70年にはドイツを追い抜いた。しかし自由化後に直ちに訪れたのは71年のニクソン・ショックだった。日本にとって有利だった1ドル=360円という為替相場は変動相場制への移行によって逆風にさらされることになった。
 1956年のソ連との国交樹立以降、日本外交にとっての最大の課題は一衣帯水の韓国と中国との国交回復だった。朝鮮半島が戦前、日本の植民地であったため感情的対立が強かった上、51年の朝鮮戦争で南北分断が固定化するなど国交回復には戦後20年の月日を要した。一方、中国は終戦時、大陸を支配していた国民党政権が台湾に逃げ込み、北京で中華人民共和国が成立していた。国際的には英仏を除く自由主義陣営は国民党政権を支持していたために、国交改善には大きな制約があった。71年、中華民国に代わって中華人民共和国が国連の代表権を得た翌年、田中首相は訪中して日中国交を成立させ、ようやく日本にとっての戦後を終わらせた。
 この間、アジアではベトナムで米ソ代理戦争が続いており、朝鮮半島図は軍事的に対立したままだった。日本はアメリカの同盟国として軍事行動をとれるわけでもなく、アジア諸国への経済協力に甘んじるほかはなかった。
 サミット・G7国
 こうした米ソの冷戦構造が深刻化するなかで始まったのが西側先進国によるG7サミットだった。1975年、フランスのランブイエで6カ国首脳が集まり、後にカナダが加わり先進主要7カ国首脳会議として定着した。直接のきっかけは71年のOPECによる原油価格引き上げだった。長引くベトナム戦争でのアメリカ経済の疲弊を引き金に、ニクソン大統領はドルの金兌換を停止するなどドルの威信は低下した。このニクソン・ショックに端を発した西側通貨体制は大きな曲がり角にあった。科学技術面でもソ連の宇宙開発や軍事力増強は西側陣営を震撼させるに十分なものがあった。加えて原油価格の破壊的高騰が西側経済を揺さぶった。
 自由主義経済を守るため主要7カ国が協力する必要があるというのがサミットの眼目だった。いまはやりの規制緩和の議論もサミットにおける経済宣言の一部である「構造調整の必要性」から始まったことを忘れてはならない。政府企業の民営化や金融自由化をいち早く手掛けたのはサッチャー首相で、通信や運輸のディレギュレーションを始めたのはレーガン大統領だったのだ。アメリカに迫られるまで規制緩和の意味を分かっていた日本人は少なかったといってよい。
 西側経済の疲弊が進むなかで日本はオイル・ショックをいの一番に克服するなど経済のパーフォーマンスは群を抜いていた。東証、サミットやG7(先進国蔵相・中央銀行総裁会議)の中での日本に課せられた役割は「成長経済のけん引役」だった。高い成長率を維持することはもとより、貿易黒字削減とともに途上国への資金供与の拡充、さらには「より高度な国内市場の開放」などあまりにも多くを求められた。一国経済に凝り固まり、世界全般を見つめる視点がなかったといえよう。
 80年代に入ると政府部内でもようやく「世界経済への貢献」論議が沸き起こった。国際政治面では東西冷戦構造の崩壊を得たカンボジア和平をめぐってアジアにおける日本の役割を果たそうとする動きも芽生え、アジア太平洋製剤閣僚会議(APEC)創設の旗振り役ともなった。
 常任理事国の是非
 1990年を境に国際社会では日本を国連安全保障常任理事国におしたてる動きが活発だ。アメリカなどからは、「経済力に見合った国際貢献」を求める声も強まった。特に湾岸戦争では「金は出すが汗も血も流さない」との日本に対する批判は国際的エゴとさえ見られるようになっている。外務省を中心とした政府は、そうした国際世論を背景に安保理入りを目指し、国力相応の人的貢献の道を探っている。
 しかし、憲法による規定で軍事力を行使できない国家がはたして国際紛争や地域紛争に対して国際的な安全保障議論に参加でいるのだろうかという疑問は残る。ドイツは軍隊の域外派遣を禁止した基本法(憲法)を改正して法制面からも安保理入りの国内整備を急いでいるが、日本ではいまのところ憲法改正の議論はほとんどない。
 「軍事力を保持しない」という憲法9条は、現在の自衛隊の規模や戦闘能力からみれば形骸化したとみるべきだろうし、自衛隊の域外派遣禁止も後方支援という名目ながらカンボジア派兵で既成事実化を進めた。国内では「PKO(国連平和維持活動)への参加で指揮権を国連に委ねれば、自衛隊の海外派兵は憲法に違反しない」との考え方も有力になってきている。
 世界は19世紀の弱肉強食の帝国主義時代を克服し、20世紀の社会主義対自由主義陣営という東西冷戦時代を終えた。まだ見ぬ21世紀に向けて特に足元のアジアから日本のリーダーシップを求める声が強まっている。