「日本の世界への貢献」。言葉でいえばやさしいことですが、国際社会の構成員としての日本の責任分担が今ほど問われている時代はありません。これまで日本にとって貢献といえば、どちらかといえば資金協力や技術協力といったモノやカネの次元で済ませられるケースが多かったのですが、昨年8月にイラクによるクウェート侵略以降は貢献の意味合いが質的に大きく変化してきました。経済的分野だけでなく世界の秩序維持のためにヒトを出して汗をかき場合によっては血をも流す覚悟が求められており、そうした負担は税金やヒトの派遣という形で国民一人ひとりに影響してくる問題でもあります。
 「世界の秩序維持」に対する貢献は戦後の日本にとって経験のない分野ですが、日本経済が世界を動かす「能力」を持つにいたった以上、すすんで世界の困難を解決していく「意思」をも兼ね備えることが必要となっているのです。「うさぎ小屋に住む国民がなにも好き好んで世界の困難を背負わなくてもよいではないか」と戸惑いを感じる国民も多いかもしれませんが、90年代の世界はまさに、そうした「意思」を日本人に対して求めているのです。
 世界に対して責任を果たしていくためには、意識や慣習まで変えなければならないかもしれません。日本人が世界に対する責任を考えずに経済的繁栄を謳歌できたのも、米国が巨大な市場を提供してくれて米国の軍事力の傘の下で守られていたからだ、ということを忘れてはならないでしょう。「日本特殊論」を振りかぎしていられたのは80年代までのことです。女性の立場でも新しい日本のあり方を真剣に考えていかなければならない難しい時代が到来したといえましょう。
 湾岸戦争への対応は十分でしょうか
 今回の湾岸戦争で、日本政府は多国籍軍や周辺国への40億ドルの支援策に加えて、多国籍軍に対して90億ドルの拠出を決めました。90億ドルという数字は日本が1年間に支出する途上国への経済協力費に近い金額で、たとえば、韓国の年間の国防費を上回るなど1国が拠出する費用としては生半可な額ではありません。
 戦争という非常事態に対応するために、政府としてもぎりぎりの選択を迫られたといえましょう。戦争勃発とほぽ同時に協力を表明したことで。米国など多国籍軍側からの評価は決して小さくありません。しかし。同じ西側の共同責任を負わされ軍隊を派遣している国々の国民からは「カネを出せばそれでよいのか」といった日本に対する批判は収まっていません。
 そうした批判に対応するため、昨年は国連平和協力法案の制定が検討されました。憲法の制約から自衛隊の派遣が難しい以上、後方支援を含めてヒトを派遣し軍事面以外でなんらかの協力ができないかという発想でした。自衛隊機派遣による難民輸送も同様の与え方に基づいたものです。
 こうした日本の支援策や努力に対して米議会でもさまざまな意見が出ています。資金協力に関してはあまり不満は聞かれなくなりましたが、一部では、「まだ金額が少ない」との批判もあります。しかしヒトの貢献という側面では、「日本はカネを払うだけで軍隊を出さない」といった批判は根強いのです。自衛隊の派遣については、「憲法の制約があるのならその憲法を改正すればよい」という考え方が一般的のようです。
 一方、ブッシュ大統領は日本に対して、「軍事面での協力は期待しない」と明言しています。これには自衛隊機派遣も含まれれているのかもしれません。米政府としては、日本が自衛隊を海外派遣できるようになればアジア諸国の反発を招くとの配慮もあるのでしょうが、戦略的には日本に軍事的自信をつけさせたくない、といったところが本音にあるのではないでしょうか。
 このように米国の日本に対する見方は複雑です。そもそも米国のイラクへの武力行使に対しても、西側諸国の世論が完全に賛成しているとはいえません。そうしたなかで世界秩序維持に、「能力」を持つ米国が自らの「意思」でリーダーシップを取っているのです。リーダーシップには必ず批判や非難がつきまとうでしょう。世界的な秩序破壊という事態に日本がどのように対応するのかは結局のところ、日本人自身が責任を持って決めなければならないということに尽きます。日本が自らの「意思」で、世界への貢献を考えなければならないのはこういう背景があるからです。
 経済では貢献しているのでしょうか
 軍事面においては日本は憲法という制約もあり、世界のリーダーシップを取ることはできません。しかし、経済面においては十二分にその「能力」を持っているだけでなく、「義務」を背負っているといっても言い過ぎではありません。
 そのなかで経済協力や資金還流の分野では日本は世界でもっとも貢献している国かもしれません。89年の途上国への経済協力を金額ベースで示す政府開発援助(ODA)で米国を抜き世界一になりました。87年の世界的景気後退期に政府は6兆円という規模の補正予算を組み、世界経済の機関車役を果たして注目されました。このところ米国の国債の多くを購入しているのも日本の機関投資家でした。いってみれば、日本の民問のおカネが米国の赤字財政を陰で支えてきたといっても過言でないのです。
 しかし、一方では日本は経済大国であるのに、外国に対して市場を充分に開放していないという不満も強いのです。89年から90年にかけて厳しい協議が続いた日米構造協議の場でも、「日本的商慣行」や「公共投資」などのあり方が問題となりました。関税貿易一般協定(ガット)の新多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)ではコメ市場開放も強く求められています。こうした不満を持つのは米国だけではなく欧州兵同体(EC)でも同様で最近ではアジアの新興工業経済地域(NIES)からも貿易不均衡にからんだ市場開放を求められています。
 経済面での米国の日本に対する不満を集約すると、日本は努力しているというが、「成果が少ない」ことに加えて「不公正だ」ということに尽きるようです。日本は戦後、自由貿易体制のもとで一番得をしてきた国であるから、今度は公正に市場を開放して世界のために貢献する順番だと言っているのです。
 とくに米国の場合そうした意識が強く、経済的に途上国を支援してきただけでなく、自国の市場を広く開放して日本などの輸出産業を支えてきたという自負が強いようです。そして、経済大国に成長した日本に対してその役割分担を求めてきているのです。
 世界に頼られる日本に
 戦後の国際的な民主主義と自由経済秩序は米国のリーダーシップによって守られてきたことは否定のしようがありません。しかし、ベトナム戦争後の米国は変わりました。経済的に疲弊する一方で、日本や西ドイツなどに追い上げられてきました。国際秩序を維持しようとする「意思」はあっても、一国だけで維持する充分な「能力」はなくなっているのが現状です。
 そこで、作られたのが先進国首脳会議(サミット)でした。西側諸国が自らの利益のために協調して米国の失った「能力」を補完してきたのです。持続的経済成長を維持するために各国の金利調整や為替調整を行ない、地球規模の環境問題やソ連・東欧問題にも協調して対応してきました。
 サミットのメンバーであるということは、国際的に日本が米国や欧州とともに世界の三極として世界秩序を維持する「能力」を持つ国家として認知されていることを意味しています。欧米諸国は、日本が世界秩序を維持する「意思」を見せないだけでなく。そうした「能力」を持つことすら認めようとしないことに対して苛立ちを示しているのです。
 言い換えれば、日本は世界の問題はいつも対岸の火としてしかみていないということになるかもしれません。その典型が「日本特殊論」です。世界の問題にすべて日本の論理で対処できるはずはありません。これまで同様に、経済的繁栄を続けていくため日本というシステムが体質改善を迫られているわけですから、多少の犠牲を党悟していくことは避けられそうにありません。世界に頼られる日本となることが、日本の安全保障にとって一番重要なことではないでしょうか。