革命が起きてもおかしくない
普通のサラリーマンの所得ではウサギ小屋のマンションすら買えなくなった大都市中心の地価高騰。食料品など生活物資の内外価格差。
欧米人からみれば革命が起きないのがおかしいほどの消費者無視の日本はどこから生まれたのだろうか。表面的にみれば確かに日本は平等社会だ。大企業の社長と新入社員の給与差はどこの先進諸国と比べても小さい。学力さえあればどんな大学にも進め、努力と運次第では社長だって、首相の地位だって望めないことはない。
しかし、はたして日本の社会構造はそれほど平等にできているのだろうか。本当に競争社会が存在していたのだろうか。
そう考えるとはなはだ心もとない。確かに戦後日本社会は平等を建前として出発した。国民の生活をある程度犠牲にして、産業社会を育成してきた。社長はボーナスを求めることなく、株主も配当を要求するわけでなかった。「国のため、会社のため」という言葉が多くの分野で優先された結果、企業は先進国中でも強すぎるくらいの競争力をつけてきた。
通貨調整のおかげでもあるが、国民総生産(GNP)では先進諸国のなかでも有数の国となった。しかし、どう考えても国民が有数の生活水準を維持しているとは言い難い。
なにがおかしかったのだろうか。日本が世界に追いつく状況にあったときはそれでも良かった。しかし、追いついてしまった後でどうなったか。業界と政府さらには政治という日本独特の護送船団方式のカルテル体質を温存したまま、企業が国際展開をはじめたからたまらない。つまり競争条件が大きく変質したにもかかわらず、産業界が幼稚だったころの体質を残したまま国際的な企業の競争社会に巻き込まれている。
豊かさが実感できる社会の構築の必要性
OECDが示した東欧支援の優先度は電気通信システム、住宅供給、環境サービス全般に置かれている。近代的なインフラの欠如が著しいだけでなく、経済変革。民間部門の開発、生産性の向上、さらには外国からの投資誘因がひどく欠けているからだという。
電気通信と環境サービスは別として、日本人としてはたして、東欧の住宅供給にまで手を差し延べる気になるだろうか。十分な広さと環境、そして職場からの適度の距離にまずまずの住宅が得られるならばわれわれとしても自分だちより劣る環境にある国々の住宅にも援助の手を差し延べる気になるが、現状では答えは完全にノーだ。
政府は、今後の日本の重点政策のひとつとして「途上国への援助の充実」を上げていることは誰もが知っている。しかし、どうも国民的コンセンサスを得ているとはいえない。国民の国際感覚の欠如も問題だろうが、日々の生活に汲々としている状態で人様の国について考える余裕もあったものではない。
どうにか「まあまあの生活をしているではないか」「上を見ればきりがないが、貧しい人々も世界に多くいるではないか」。そんな気持ちを国民に起こさせるような国作りをしてきた戦後の政策に大いに問題ありとしたい。
何もかにも企業中心で、消費者の視点に欠けていたのが問題。われわれは本当は豊かになるために「国のため」「会社のため」と努力してきたのではないか。努力してきた結果が「家も買えなくなった」のではあまりにもやるせない。「会社がつぶれたらわれわれの生活もなくなる」のは過去の話であって、「われわれがいなくなれば会社も国もない」。そんな考え方で政治を変え、会社での労働を変える必要がある