(共同通信社に入り、2年目、大学のゼミの先輩に促されて月刊誌「創」に中国訪問レポートを寄稿した。金額は忘れたが原稿料もいただいた。外部執筆の始まりだった)

 日本で報道される中国人民のエネルギーは本当だろうか。人々はむしろ政治には無関心だ。

 聞くとみるでは違う
 王府井(ワンフチン)といえば、中国でも有数の目抜き通り。日本でいえば、さしずめ銀座通りというところだ。午前9時の開店から、午後7時ほとんどの店が占めるまで、この通りは人並みの絶えることはない。
 自転車が半ば道路を占拠し、舗道からは人があふれ商店に市場に、あるいは劇場に公園に、人、はさんざめいていた。
 中国の人口が多いことは、日本では小学生でも知っている。しかし、私が驚いたのは、それらの人、の動きが、実にゆったりして、いること、つまり「緩慢」とでもいうような印象を受けたことである。文革、林彪失脚、四人組追放と続いた一連の政変で報道されたあの『緊張』した姿は、どこにもなかった。

 さる5月、滋賀県日中友好の翼訪中団に同行、2週問にわたり、上海、杭州、北京を訪問、人民公社、工場、学校、各地の名所旧跡を見学した。昨年、2、3月、ひとりで北京、大同、西安を旅行したのに続き、1年2カ月ぶりの2回目の中国旅行だった。冬と春、個人と団体。全く違う環境で中国を見る ことができたのは幸いだった。2月の河北省はいまだ厳冬期。大地は氷にとざされる。連日零下の風が人民の肌を刺し、八達嶺の万里の長城に登れば「朔風に蒙古騎馬のいななきを聞く」思いである。中国の歴史は塞外民族との攻守の歴史であるとともに自然とのあくなき闘いであることも知らされた。反面、春到来の喜ぴは厳しい自然下ならではのものである。この5月、新緑が勃々として江南の大地には菜の花、レンゲ草が咲き、 一面のじゅうたんを思わせた。
 短い期間で、しかも限定された範囲での見聞で「中国論」を述べるのはおこがましい。ただ、中国ほど見ると聞くとで違う世界は少ない。欧米の旅と違って、見るものすべてめずらしく、新しい発見をしたような気になる。日本での中国は、いまだに政治優先だがら、あの人民の洪水のなかに人民解放軍のカップルやパーマをかけた女性を見つけると異常に興奮したり、「なぁんだ」と安心したりする。そんな中国の雑踏の風景から紹介したい。

 自動ドアとサングラス
 王府井と長安街り交差点にしばらく立って雑踏をながめる。道端に腰掛け、今買ってきたばかりのズボンの包みを開け「どや、かっこええやろ」と言わんばかりにファッション談議をしている青年。お孫さんとアイスクリームをほおばりながら真新しいトランジスタラジオのスイッチを大事そうに入れるおじいさん。北京飯店前の人だかりを何かと思えば、玄関の自動ドアがめずらしくてたまらないらしい。門に立つ人民解放軍兵士が蹴ちらしても、またすぐ人だかりになる。花の都、北京にはこうしたお上りさんを含めて雑多な人種がいる。回族飯館という看板をよく見る。豚肉を食べない回族(回教徒)のための食堂だ。北京の西南のはずれ街には、今ほとんど使われていないらしいが青いタイル屋根のモスクさえある。
 中国は北京でさえ娯楽が少ない。映画館や劇場のキップなどもなかなか手に入らない。バー、飲み屋、喫茶店のたぐいは皆無だから、楽しみぱ買物ぐらい。家も狭いので人民たちは暇さえあれば町をブラブラしている。
 人民たちの買物風景を見るのは楽しい。月給が少ないからウィンドショッピングが多いが、買うとなれば、ああだこうだ、けっこう柄やデザインにもやかましい。日本から見れば、品数も少なく質素だが、中国には中国なりの流行があるようだ。ちなみに四人組失脚後の流行の先端は女性のパーマとまっ黒のサングラスだ。華国鋒主席もときどきかけるサングレスは眼の保護のためらしいが、一国の最高責任者がかければ、人民もかけたくなるのが心情だ。         
 概して中国の商店はつっけんどんだ。ウィンドウケースの品物を見せてと言えば、まさに嫌々ながら、売る意志があるのか疑いたくなる。つり銭は投げる。あまり良く品物を吟味していると「買うの、買わないの」と嫌味な顔をする。主客転倒でお客は丁寧に売っていただく世界らしい。「四つの現代化のため利潤の追及も是」とする最近の中国の論調もうなずける。外国人は「こんちきしょう」と思うが、人民たちは行列でいくら待たされても文句を言わない。買物を楽しんでいる。慣れっこなのではなくて貴重なお金を便うのだから、やはり嬉しいのだろう。豊かさのなかにどっぷりつかって、それでも文句の絶えないわれわれが失ってしまった世界がここにあるような気がした。
 中国にも犯罪はある。ただ新聞が取り上げないだけだ。四人組の締めつけが厳しかったころ、各地で盗賊が横行した。辺境に下放された青年が厳しい生活に耐えきれなくなって都会へ逆もどりしてきたが、生活の基盤を失い、盗賊団化したとも聞いた。中国でぱ職場で配給される糧票(リャンピャオ、米券)なしでは主食も買うことはできないからだ。留学生の話では、そうした賊が北京大学にまで入り込んで一時は大騒ぎになったらしい。ただ外国のお客さんから物を盗んだり、危害を加えたりすることはめったにない。ことのほか処罰が厳しいからだ。思想が優先され、相互監視の行き届いた社会だから、犯罪はわれわれの世界よりは少ない。確かに、ホテルの部屋に鍵をかけなくても安心で、忘れ物をしても必ず持ち主を見つけて届けてくれる。服務員への教育の徹底は大したものだが、これを9億の人民に徹底させるのは難しい。
 交通事故もある。一回目の訪中で4回、交通事故に出遇った。北京の天安門近くの長安街では乗っていたタクシーが無理やり横断をしようと自転車とぷつかった。幸いけがはなかったが、当事者は必死だった。交通渋滞もものとせず、大通りの真中で、口泡を飛ばして怒鳴り合う。「この老いぽれめ、どこへ目をつけてやがんだ」と国家財産の車にキズがついた運転手。自転車がぺしゃんこになった老人も負けてはいない。「てやんでえ、てめえこそスピードの出し過ぎの前方不注意じゃねえか」とやり合う様は万国共通だ。この間に道路は黒山の人となる。娯楽の少ない国だから他人のけんかも面白い。警官が来て騒ぎが収まるまで客の私はジッとがまんの子だった。
 北京のパスのなかで無賃乗車の少年を見つけた。中国のパスは日本以上に混み、クラクションを鳴らしっぱなしで自転車の洪水のなかを突き進む。日本感覚からすると料金は安く、一区間(三停留所)3銭(約5円)だが、4、50元(6000円―7500円)という中国の平均貿金からみるとそう安くはない。通勤パスもあるが、いつも満員だからやはり人が多いということになる。
 乗車すると、女性の車掌が「キップ、キップ」とがなりたてる。微塵も女性らしさを感じさせない。ドアの開閉なども荒っぽく、いちいち命令口調なので頭にくるが、人民たちは慣れっこだ。われわれ外国人は、人を押しのけるぐらいの男気がないと生活競争に乗り遅れる。中国は思ったよりのんぴりしている。のんびりしすぎていると思ったが、バスに乗るときだけは別だった。
 キップは乗った後で行き先を告げて買うだけで降りるときはフリーパス。しかし、混んでいるからタダで乗れると考えたらとんでもない。ちゃんと車掌さんが目を光らせている。この少年は乗降客にまぎれて「薩摩の守」を決め込んだのだが、パスを降りたとたん車掌に「コラ、待たんか」でチョン。客の視線を受け、真赤になりながらキップ代を払い、一目散に人波のなかへ走っていった。

 学習と知識レベル
 昨年、大同の炭鉱を参観したとき、責任者から工場、炭鉱の説明があり、四人組追放後、生産量が飛躍的に向上したことを知らされた。この後、工場内を案内されたが、止まっているベルトコンベアの上で昼寝をむさぽって工員がいてびっくりした。この作業員はわれわれの姿を見るなり、シャベルを手にして、こぽれ落ちた石炭を集め始めた。後で工場の責任者に叱陀されるだろうが、やはり、へまをしておこられる人もいないと面白くない。
 四人組時代は「造反有理」で仕事をなまける人民が多かったらしいが、失脚後はそうはいかない。勤務評定がつけられ、賃金面でも格差が生じてきている。働かざるもの食うべからずだから、かえって厳しくなるはずだ。四人組追放後、人民の顔が明るくなったとよく言われる。京劇が復活し、北京でベートーベンが聞かれるようになった。メーデーの前夜祭では白いタイツ姿のバレリーナが白鳥の湖を舞った。文革以来、弾圧されていた学者や芸能人が復活した。表面的に見るとよいことづくめだが、これからは思想一本では飯が食えず、実力、能力が幅をきかすようになるからこそ、競争に打ち克つための厳しさが必要になるだろう。
 中国の工場や人民公社参観は、そこの幹部との挨拶、それぞれの生産単位の発展史における武勇伝のひとくだりなしには始まらない。私はこの課程を「学習(シュエシー)」と呼ぶことにした.多い日は、二度も三度、「学習」を受け、うんざりするのだが、通訳さんも何遍も同じ工場に通って説明を暗記しているらしく、「学習」のくだりになると日本語や英語が流暢になる。
 「学習」の内容はどこでも同じでそれぞれの単位(職場)の特徴を少し加味した程度。人民日報をおうむ返しに言っているに過ぎない。ただ単位の主任や副主任クラスの人が説明に当たるので中国の社公を知るうえで面白いこともある。
 大同のじゅうたん工場の主任は、伝統工芸の責任者だけあって、上品な顔つきの老婆だった。町内会長を務めた後、老後にじゅうたん作りの指導をしていると言っていた。上流家庭の出身か、落ち着いた黒色の中国服を着て、足にてん足の跡が窺えた。
 同じく大同のパン工場の副主任も女性だったが、こちらは年の頃、25、6の小柄な青年。紅衛兵上がりらしく、文革での武勇伝を主に話してくれたが、4、50歳の労働者を鼻であしらう嫌はあまり感じのよいものではなかった。迫力あるだみ声での説明中、大またに広げた足をピンピンさせ、お下げ髪をしきりにいじっていたが、幼稚性からまだぬけ出していないこの副主任も文革の成果なのかと思うとひどくやるせな気持ちになる。文革が遺したものがこうしたものだけだったとしたら毛沢東の思惑は大き誤算だったと言わざるを得ない。
 西安郊外の魚化塞人民公社では「学習」の後、一生産大隊の知識青年の部屋に案内された。この生隊大隊には20人の知識青年がいたが、その多くは西安の中学を卒業した後、公社へ下放されたと言う。下放運助は文革期に始まった教育ステムで、中、高等教育を受けた学生を一時期、農村へ送り、農民に勉強を数える一方、労働をも体得させ、将来、幹部になったときにも働くものの心を忘れさせないよう一石二鳥を狙ったものである。そこで数年働き、職場単位での推薦を受け、復学ができるシステムになっている。日本のように頭でっかちのみが育つ社会にこそ以要な教育課程に思われた。
 しかし、そんな下放運動に幻滅を感じるのに大して時間は必要でなかった。ここで会った赤いほっぺの17、8の男女は日本的感覚でいう知識青年とはほど遠いものだった。3人一部屋の室内は粗末なベッドと小さな机と椅子が三組ずつあり、持ち物は衣料を入れた小さなトランク一つだけ。本がないのだ。書籍だけが知識を象徴するとは思っていないが、小説にしろ、教科書にしろ、ただの一冊も置いてないのには驚かざるを得ない。「いつ西安に帰れるのか」と聞けば、「党の指示があるまでここにいます」と言っていたが、いつのことになるかわからないといった様子だった。
 それでも、彼らが農民の知識向上に一役買っていることは事実のようだ。しかし、私の見た範囲では下放運動は農村、過疎地への労働力供給対策の面の方が強いような感じがした。そして、何よりもがっかりしたのは知識青年というときの知識のレベルの問題だった。
 上海でも、北京でも国際旅行社のガイドやホテルの服務員はよく勉強していた。学習時間を設けて人民日報の購読会を朝夕開いていた。テレビの外国語講座もよく見ているようだったし、わからないところを熱心に宿泊客の外国人に聞く姿もよく見かけた。町の本屋で新刊書が出ると早朝から行列ができ、たちまた売り切れる、増刷も問に合わないらい。清華大学でも図書館は満員だった。よく勉強をする中国の姿を見せられていただけに魚化塞の知識青年のことが気にかかった。ひょっとして魚化塞が特別なのではと。

 大学を出なければ……
 中国を訪ねた日本人は誰でも「中国の子供たちの目が明るく輝いている」ことを強調する。中国の将来が希望に満ちていることを言いたいのだろうが、それは都会の学校や少年文化官といったエリートの集まるところでの話だ。もともと子供は無邪気なものだし、魚の腐ったような目をしているのは日本の都会の子供くらいのものだ。中国は遅れていることを恥とせず、なんでも見せてくれるというが、それでも、われわれの接する部分は優秀な部類で、魚化塞もその部類に入るのだとしたら、中国の将来はまだまだ大変だ。「四つの現代化」をもっともっと高く叫んでもらわねばなるまい。
 「学習」は一般的にうんざりするものだが、中国が建て前としてふつうの観光客を受け入れない現在、ある程度耐えねばならない。卓球が強くなるためにも思想闘争がものをいう社会だから、旅行に政治があっても仕方がない。特に団体旅行での「学習」では本音が出にくいのでつまらない。今回の旅行で北京の清華大学での四人組批判の「学習」は文革のお家元での話だけに例外的に面白かった。
 清華大学は、文科の北京大学と並んで理工系総合大学の双璧であるとともに、文革とは切っても切れない縁がある。文革の主役、紅衛兵の第一号を生んだのが同大付属中学ならば、紅衛兵弾圧のため、北京市が同大に送り込んだ工作隊(メンバーに劉少奇の妻王光美)と紅衛兵指導者張大富(工業化学部生)とが対立、混乱を極めたのを同大学だ。
 童詩白教授の話では、1976年初め、毛沢東は学校へ入って「革命をやる」よう呼びかけたが、林彪に阻止された。四人組が介入したため、かえって大学は二つに分かれて武闘が行われた。以来、学園は混乱し、5年間、学生募集もできず数育革命も進まなかった。四人組の具体的破壌活助についてほとんど述べなかったが、73年以降、特に76年がひどかったらしい。73年、入試を5年ぶりに復活させたところ、有名な張鉄生の「白紙答案事件」が起きた。言論活動を牛耳っていた四人組は「英雄的行為」と誉め称えた。この問、四人組一派と学究派は桔抗していたが、この事件で大学は四人組一派の実権下に移った。同一派は教師こそが試験されるべきだと、反対に教授達に試験を課した。このことは報道されたが、四人組に屈服しなかった教授のなかには、張鉄生をまねて、白紙答案を提出して、抵抗の姿勢をみせるものもいた。約3000人の教員のなかの1000人が日和見主義者として徹底攻撃を浴び、罷免させられた。学生の多くも工場へ迫いやられ、学園は応用理論どころか、基礎理論さえも忘れ去られ、政治思想の修羅場と化した。四人組が失脚したいま、追放された教員、学生も戻り、「学園の整頓」でてんてこまいだそうだが、約10年の学園の破壊を取り戻すにはかなりの年数がかかりそうだ。今回、北京滞在中、ずっと付き添ってくれたのは北京大学日本語科のM君。あまり上手ではないが、一生懸命通訳してくれた。あるとき、「私は無試験入学の口でしてね」と漏らしてくれた。中学卒業後、北京のぶどう酒工場で働いていたところ、職場の推薦で北京大学に入ったそうだ。大学入試復活で受験生が何十倍という倍率に挑んでいるという話をしていたときだけに、「私のようなものは場違い」というように首をすくめた。「だけど、誰だってよい職に就きたい。そのためには大学を出なきや話にならないですよ」。どこかの国の学生と同じことを言っていた。また、「私は職場推薦だから、元職場から月40元(6000円)もらってるんですが、今年入った学生は、国家から奨学金として10元ぐらいしかもらっていないんです」とも言った。「そりゃ差別だ」とからかったら、ペロッと舌を出した。
 M君は24歳、恋もする。「恋人と早く結婚したいが、まわりが許してくれそうにないし……」とも言った。中国人は人口抑制のため、男28、女26を結婚適齢期としているからだ。四人組批判が盛んなこのごろだが、まだまだ四人組時代の恩恵に浴している人がいる。どんな人間かと思えば、M君のようにあまり政治的でないのもいる。もちろん、M君も国際旅行者のガイドのように模範的返答もするが、ただ、あまり流暢ではないだけだ。ひょっとしたら中国の底流は上部機構と全く違う意志で動いているのではないか、そんな気もしてきた。

 激動の中国とは?
 日本でみる中国は政治で覆われている。私の見た人民たちは反対にかなり脱政治的だった。のんびりしているどころか、街角に立つ人民解放兵にさえ緊張感が足りずはがゆく思えた。確かに国際旅行社の人が案内してくれたところでは、政冶優先の建て前があった。北京郊外へのバスに乗ったとき、軍事基地の近くでパスを降ろされたり、各地の地下防空糠に案内されると対ソ戦に備える厳しさを感じたが、一般的には、新聞で伝え読んだ60年代後半の文革のエネルギーほどのものは伝わってこない。
 昨年2月の荘則棟失脚は北京市内の壁新聞で知ったが、廻りで騒ぐもの、喜ぶもの誰も見なかった。四人組失脚のお祭り騒ぎもすぐ平静にもどったと聞いた。雑踏に身を置き、行き来する人民たちと肩と肩でふれながら「中国の人民たちの民族のエネルギー」に疑問を抱くようになった。ひょっとすると新聞紙上を賑わす激動の中国を動かす部分と人民たちは、全く異質の人種ではないだろうか。そう思うと中国当局の時としてかかげる一見過激な政治的スローガンもなんとなく理解ができてくる。