学校って何なのか
学校って何なのか。ここ数日考えている。鈴木大裕「崩壊する日本の公教育」を読んでいるからである。思い出しているのは。2006年のスコットランドの旅だ。1800年、ロバート・オーエンはグラスゴー郊外のニューラナークに紡績工場を始めた。まず、病院をつくった。労働と疾病が隣り合わせていたからだ。次いで取り組んだのが児童への教育だった。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だった。子どもといっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていた。子どもは労働力だったが、オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけた。
1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間とした。家族そろって工場で働いていた時代であるから、家には誰もいない。子どもたちに学校という居場所を提供したのだ。学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もあった。
オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり前だった体罰を禁じたことだった。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れた。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生はニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するようになった」と語っている。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのだろう。
それから100年、明治も終わるころ、賀川豊彦は神戸市葺合のスラムに入り、子どもたちの世話を始めた。日曜学校を開いた。すでに義務教育はあったが、学校へ通う子どもたちはほとんどいなかった。暇があれば、物乞いをしたりして貧しい親たちの生活を支えていた。狭いバラック住まいの子どもたちに居場所はなかった。おやつも用意した。子どもたちは賀川を「先生、先生」と慕った。賀川は、そんな子どもたちが盗みを働いたり、女郎屋にうられていくことを悲しんだ。
昨夜から飲み屋でお客さんに「学校って何なのか」を聞きまくっている。「社会への入り口」「行くべきところ」「交流すべき場所」「給食を食べるところ」「学校教育法に定められた組織」。そんな答えの中に「居場所」というものもあった。