五 国会開設と選挙大干渉(佐川町史より)

 明治二十三年(一八九一)、維新以来の自由民権運動が実っていよいよ国会の開設が実現し、七月一日初めて衆議院議員の総選挙が行われた。その結果土佐では自由党が全勝し林有造、植木枝盛、片岡健吉、竹内綱の四名が当選したが海南自由党佐川支部組合結成以来の佐川近傍には自由党支持の有権者が多かった。そして第一回の帝国議会は十一月二十五日開院せられ、山県有朋主班の内閣が生れた。
 明治二十四年五月五日、松方正義を主班とする内閣が生れ、同年十一月二十日第二回帝国議会が開院されたが、このとき政府は軍艦建造、製鋼所設立などの費用八千三百五十万円の臨時予算を提出して協讃を求めたが、自由党(板垣)、改進党(大隈)、独立倶楽部(楠本)の三党は合同してこれに反対したので、正面衝突して議会は解散となった。政府は翌二十五年二月十五日をもって臨時総選挙を行うことを発表したが、政府はあくまでも前提案の成立を期し、総理大臣松方正義は時の内務大臣品川弥次郎、海軍大臣西郷従道、陸軍大臣高嶋輔之助らに交渉して選挙干渉の同意を得、自由党を弾圧する手段をとった。品川内相は先ず知事、郡長の大更迭を行い、内命を下して選挙干渉の手配は全国に布かれたが、高知県知事には腹心の調所広丈、警察部長に古垣兼成(何れも薩摩の人)を置き、このなぐり込みの暴漢の大将は尾川の力士鎮台松こと高橋松次と、その子分片岡勘蔵、片岡友太郎外数名の国民党側の廻しものだった。こうした事態にたまりかねた片岡健吉は松方首相に、須崎町長山本正心は高知県知事にこの実情を上請してその善処を懇請したが、何の効果もなかった。
 佐川は自由党の金城湯地だったので、高知支部からも壮士数十名が派遣され、新町竹村安右衛門の別邸に本部をおいて、伊藤徳敦の指揮によって暴挙の抑制につとめていたが、斗賀野では村長明神時長の本宅(野地)を本部として、ここには高知支部の楠目玄、河野指撃らが壮士を率いて来り秘策を練っていたので、国民党軍の襲撃目標はまずここに集中された。
 一月二十八日の午後五時頃上下半山、東津野、仁井田方面からくり出してきて須崎に屯ろしていた国民党軍と、国民派が佐川付近で雇い入れた暴漢百数十名は、四十余名の警官隊を後楯として、尾川の力士鎮台松こと高橋松次が先頭に立って、抜刀を振りかざして自由党斗賀野本部を襲うて来た。かねて鹿場の山上に配置してあった見張りが発砲して襲来を報じた。これを待ちうけた自由党闘士たちは、抜刀をもって斬って出た。自由党の意外に強い気力に国民軍は一旦退却して本部の対向大平の東林坊に布陣して、その夜は両者叫睨のまま無気味な対陣となったので、付近の住民は生きた気持ちもなかった。この状況に対して中摩高岡郡長は「抜刀して抵抗する奴は容赦なく斬って捨てよ」と厳しく下知した。
 翌二十九日の払暁「与党危うし」の報に前夜から来ていた高知署の野村敏郎警部の率いる高知、伊野両署の応援警官百二十余名の新鋭勢が佐川分署に協力、石切坂、永野馬越の二方と、東林坊対陣の三方から斗賀野集会本部を襲うた。1 官は抜剣、闘士は長刀をかざして関の声をあげて迫ってきたが、折から虚空山の頂に射した朝日に刀剣がキラキラと輝き、雪崩のように東林坊から馳せ下った国民軍が丸山川を一気に飛び越えて来たと、後年これに参加した古老たちは語っている。
 これを迎えた自由党本部の壮士はわずか二十数名にすぎなかったが、来襲を報ずる三発の銃声に、木部の上の山中や、田圃のワラグロの蔭に前夜から警戒していた自由党加勢の村民が手に手にもって刀や竹ヤリ、投石などで応戦、集会所をまもるうち、村民の数名けはや袋だたきにされたので、これを救をうとした別隊の村民に国民軍の一人が竹ヤリで刺されたのが血祭りの緒戦となった。そのうち本部の闘士も斬って出たので、戦国時代さながらの白兵戦を展開、自由党軍のまっ先に立って躍り出た斗賀野村伏尾の西田楠吉(当時二十四歳)は敵党の先頭力士鎮台松と渡り合い、一刀のもとに頭部を斬って転倒させ、さらに、井上作郎分署長に迫ったが、四辺より包囲した国民軍剛士のため斬り伏せられ、総身に凹十余か所の創か受け、胸部の深手に倒れた。ついで自由党士山崎卯子(鳥ノ巣、当時二十六巌)も腹部を刺されて即死し、前野辰吉は数創の深手を負うてその場に絶命した。
 幹部の壮士を討たれて激昂した自由党軍の殺気と、村民の大衆軍にへきえきして裏山の下に逃避した国民党軍の頭上には、かねて林中に用意した村民の投ずる大小の石つぶてと発砲の弾が雨、屁と降りそそいだので、国民軍はほうほうの態で佐川の屯所まで敗退した。勝に乗った自由党軍はなおも追撃しようとしたが、楠目玄、山本浅次郎らが懸命にこれを止めたのでようやく、戦闘状態も収まった。
 一方国民党側にも相当の死傷者を出したので、戸板やムシロの担荷に乗せられて、斗賀野峠路を越えて須崎へ運ばれる死傷者が引きも切れずヽおびえる斗賀野村民の目を引いたというにの両党の衝突は後年「斗賀野合戦」また「野地騒動」などと呼ばれて有名になった。
  (註) この激闘で身に四十余か所の刀創を負うて倒れた。内田楠吉は、家僕…川村亀弥の介抱によって助けられ、九死に一生を得た。後生涯を憲政に捧げ二目山党幹部として活躍、老後は十佐の生きた憲政といわれたが、昭和二十六年八十四歳をもって没した。
 この一方佐川では、新町竹村安右衛門の別邸に設けた自由党本部に、佐川党員が詰め旅館久屋馬三郎方には黒岩村の自由党有志十五人が宿泊して1 戒に当り、旅館夜須屋や外山強、新町の茨木定厚方にも横畠や遠く長岡郡本山や、高知、伊野から応援にくりこんできた自由党員が陣どっていたが、外には警官が囲んで出入りを監視していた。国民党側は西裏町の空屋(後の料亭街風楼)に本部を置いて首領格楠本正誠が采配をとって睨み合っていた。
 投票日も目前に迫った二月十二日、楠本正誠は吾桑村堀越の堅田潤の宅にいたり壮行会を開いた後、山を越してひそかに斗賀野に出、佐川にきて酒屋三橋棋助の家に泊っていたが、ちょうどその夜佐川には自由党高知支部から近藤正英、藤崎朋之の二人が来て有権者会を開いて選挙に関する協議をしていた。
 その一方では国民党候補片岡直温の郷里半山方面から約四百人ほどの応援隊が夜蔭の中を馳せつけていたが、午前零時ごろ佐川東町の札場(掲示場)付近で集会帰りの自由党員と衝突して大乱闘となった。この騒動で吏党を指揮していた国民党の領袖楠本正誠は東町タダス橋のほとりで下腹部から右脇下へかけて、竹ヤリの貫通創を負い、頭部をなぐられ、耳が肩にずり落ちた無惨な死骸となって未明に発見されたが、付近にはなお七、八名の死傷者が倒れていた。この領袖楠本を倒した凄腕の闘士は、当時、越知の自由党に属して活躍していた元深尾家中の士族丹羽某であったといわれる。楠本らの遺体や重傷者は戸板に乗せられて尾川から山越に半山へ運び去られたが、総大将を失った国民党軍は佐川方面から影を消してしまった。
 投票日が近づくにしたがって暴動はますます激しくなり、安芸郡の土居村や安田でも殺傷事件があり、また香美郡の岩村、吾川郡秋山、幡多郡では中村、和田村など各地で血なまぐさい事件が続発した。
 吾川郡川内村の大内温泉に本部を置いて五、六百人が屯する東部の国民党車は、高岡の壮漢宇賀楠治や、須崎の力士神風を先頭にして、石油をぶっかけて高岡の町を焼き払うと押し出す一騒動もあった。
 いよいよ投票の二月十五日となった。自由党員は午前四時頃から投票所の佐川小学校付近に集合して反対派の乱暴を防ごうとしたが、憲兵隊に制止されたので、投票所には村会の決議によって取締人として二十名の屈強な臨時雇をおいて警戒させた。八時頃になって須崎方面から数十名の国民党闘士が梶棒、凶器を携えて佐川に来り、投票人を脅迫し、投票所に近づこうとしたが松崎において憲兵に制止されて須崎に引返した。しかし一方では高知、江ノ口両署より来援した巡査数十名が、佐川投票所の周辺や入口に陣取って投票人を脅かし、追尾してしつこく国民党候補への投票強請を逞しくした。けれども、開票の結果は佐川の投票者五十九名中片岡、安岡の国民党候補に投票したものはたった二票しかなかったという。
 投票を無事終って、翌十六日開票場たる須崎の高岡郡役所に投票箱を護送したが、これがまた一騒動であった。管理者安岡佐川村長と、各村の立会人数人及び巡査二名が投票箱の周囲を護衛し、更に屈強の雇人十名が前後に付添って万一奪還狼籍の暴行に備え、村民数十名は斗賀野峠を越えて可良谷の付界まで見送ったが、反対党の影も見えず、案外静かだったので、見送りの村民は引返して帰村した。
 十九日開票の予定だったが、幡多郡和田村の違反事件で延期となり、二十九日に行われたが、この開票に立会すべく須崎に出張した安岡真昌佐川村長外数名は、途中の暴徒出現を恐れ、高知に出て船便をもって須崎に入港したという有様であった。そして中摩郡長はこの延期保管中にひそかに投票箱を焼き捨てて、紛失したと強引に主張した。
 このときわざわざ高知廻りして危うきに近づかなかった安岡佐川村長は事なかったが、自由党の嶽洋社から応援に来ていた和田亀太郎と細木信太郎はその帰途、戸波の鉄砲辻で国民党百人あまりに襲われ剣客福永数右衛門や、大妻景郎らに斬殺され、多数の重軽傷者を出した。
 こうして県下を震撼させた政争の投票も開票の結果は
  国民党 片岡直温 八五四票 安岡雄吉 八四四票
  自由党 林有造 七七三票 片岡健吉 七七一票
となっていたが、自由党(代言人山下重威、藤崎朋之、西原清東)は「開票に不正がある」として、三月二十八日大阪控訴院に告訴したが、証拠不充分として敗訴になったため、更に大審院に上告の結果、翌年四月六日開票前の干渉と不合理が認められ
  当選 片岡健吉 八七九票 林有造 八七五票
  落選 片岡直温 七四七票 安岡雄吉 七四二票
となって、まったく逆転、なお第一区では武市安哉、第三区では西山志澄が当選したので自由党完勝となった。
 かくて同年四月下旬、佐川柳瀬公園で、自由党大勝の祝賀と、西田楠吉の全快祝いの大懇親会が開かれたが、集まった郷党の士数百名をもって柳瀬川原をうずめ、板垣退助、片岡健吉、林有造、西田楠吉らは宴中立っての演説に万丈の気を吐いた。
 この干渉事件によって高知県下の死者十名、負傷者六十六名、破壊された家屋九十戸に及んだが、その大半は高岡郡下であった。
松方内閣の選挙干渉は五月二日の臨時国会でも問題化したので、これを恐れた政府は、責任者品川内相を辞職させて、局面の収拾をはかろうとしたがついに瓦解して、第三次伊藤内閣が出現するようになった。