犬養を失って日本は焦土と化した 夜学会328
「狼の義 新 犬養木堂伝」。1931年、満州事変によって崩壊した第二次若槻首班の後継者として首相に就任した。就任直後、萱野長友を国民党政権に密使として派遣、両政府の和議を図った。しかし、計画が漏れて失敗、5・15、官邸て暗殺された。関東軍による満州国を最後まで承認しなかった義の政治家だった。犬養は岡山県出身のジャーナリスト。西南の役に従軍記者として派遣され、その流麗な文章で有名になり、大隈重信の改進党に参画、第一回総選挙から政党政治を率いた。1897年、宮崎滔天が孫文を犬養に紹介、犬養家の裏で孫文を匿っていた関係から辛亥革命を支援、革命の武器調達にんも関与した。孫文の死後、蒋介石が北伐を始め、大陸を統一した後の1929年、蒋介石は首都、南京に孫文廟をつくった。多くの日本人がその式典に参加した中で廟の中に入れたのは蒋介石含め3人だけだった。その1人が犬養だった。蒋介石政権で唯一、信頼できる日本の政党政治家だったはずだ。その犬養が田中義一政権後の政友会総裁に押され、首班に指名された。陸軍の暴走を止められるのは、犬養首相だけだったが、もはや遅かった。それまでも数多くの政治家が右翼によって狙撃されてきたが、あくまで民間人によって引き起こされた事件だった。5・15は陸海軍の青年によって引き起こされた事変という点で質的の大きな違いがあった。犬養が首班に指名された時、昭和天皇は「陸軍の暴走を止める」よう懇願したとされる。天皇の意思をも無視し「統帥権」を掲げたのが戦前の陸海軍だった。制度的にはまがりなりにも立憲主義を保持してきたはずの体制は、5・15によって完全に崩壊してしまった。今の日本の政治を振り返ると、似た状況が生まれているのではないだろうか。憲法解釈をもねじまげて「集団的自衛権」を国是としてしまった。つまり現憲法の平和主義の看板を法的手続きなしに架けかえてしまったのである。