台湾の台南市と嘉義市のほぼ真ん中に珊瑚潭という人造湖がある。珊瑚のような入り組んだ形をしている。七十数年前に曾文渓の流域を大規模開発した。台湾の河川の多くは渓という。傾斜が急で流れが速いのが特徴なのだが、亜熱帯のモンスーン地帯にあるにかかわらず、乾期は水不足となり農耕が出来なかった。
 そんなところに巨大なダムをつくって下流域の嘉南大圳に網目のような水路を張り巡らしたのが八田與一という日本人だった。ダムの名前は烏山頭ダム。今もなお多くの農民に恵をもたらし続けている。
 ダムのほとりには八田與一の銅像と夫妻の墓があり、毎年、命日の五月八日には地元の人々によって慰霊祭が執り行われる。
 ダムの建設は大正期から昭和初期に行われた。当時、台湾は日本だった。東洋最大のダムを「植民地」に建設することに異論はなかった。今と違って、そのころまでの土木事業は住む人々のためにあると言った日本の土木事業の先駆者、広井勇の心意気はほぼ日本内外に浸透していた。
 八田與一が造ったダムはセミハイドリック工法といって、日本でよくみるコンクリートのアーチ式ダムではなく、土盛りの堰堤で水を堰き止める方式だった。全長一二七三メートル、高さ五六メートル。アメリカでも数例しかない方式で、東洋ではもちろん初めての試みだった。八田與一はアメリカから最新鋭の土木機械を導入した。
 台湾人で初めて総統に選ばれた李登輝は、台湾を大陸と違うアイデンティティーの国家に作り上げようとした。その中で戦前の日本精神が尊ばれ、八田與一を国造りの象徴の一人として顕彰し、小学校の副読本に八田與一の一生を盛り込んだ。嘉南大圳の人々に神様のように慕われる人物であるから不思議でない。
 人類の歴史はある意味で自然との闘いだった。苛酷な自然をどう克服するかが課題だった。台湾にとってその一人が八田與一だった。珊瑚潭が自然に溶け込んでいるのもコンクリートでなく土盛りの堰堤だったからでもある。
 五年前の五月八日、慰霊祭に参加した。ダムのほとりに七〇〇人もの人が集まっていた。八田與一の故郷の金沢市からも多くの人が参加していた。参加者の中には南部の屏東県からの人も少なくなく、会場には日本語が響きわたっていた。「慰霊祭に来れば日本語がしゃべれる」という声も聞いた。
 この四月末、その八田與一の銅像の首が元台北市議によって切り離された。頼清徳台南市長は慰霊祭が行われる五月八日までに修復することを約束した。幸い銅像は奇実博物館によってコピーが作成されていて、修復に困難はなかった。
 この事件は元台北市議の目論見とは裏腹に、台湾内外に八田與一の存在を改めて浮き彫りにすることとなり、日台友好の絆を深める結果をもたらした。
 八田與一の銅像は戦前、地元民によってつくられた。一般的な銅像にありがちな威圧感は全くない。地面にしゃがみ込んで建設を指揮する普段着の姿がほほえましい。(伴 武澄)