宮崎 滔天
宮崎 滔天(みやざき・とうてん) 明治三(一八七〇)年、熊本県荒尾村生まれ。幼名寅蔵。兄らの薫陶を受けてアジアに目覚める。一八九七年、広州蜂起に敗れて来日した孫文と横浜で出会い、以来、孫文の中国革命に一身を捧げた。
滔天は男八人女三人の末っ子で、徳富蘇峰の大江義塾に学んだ。青年期に兄らと議論し、民蔵は世界を革新するために日本で土地革命を実現し人民に平等に土地を分けることが必要だと主張し、日本の革命を目指すことになる。弥蔵と滔天はアジアの革新という空想を描く。
二四歳の時、タイに渡り同国への移民事業に関わる。二七歳の時、犬養毅を知り、外務省から中国の秘密結社の状況調査に派遣されたのがきっかけとなって中国との関わりが始まり、孫文と知遇を得て一瀉千里に中国革命に傾斜する。一九一九年に亡くなるまで革命に尽くした。
滔天亡き後、長男龍介は父親の人生について「天下の乞食に錦を衣せ、車夫や馬丁を馬車に乗せ、水飲み百姓を玉の輿、四海兄弟無我自由」と語っている。中国革命を志した願いがそこにあったという。いまではほとんど理解できないようなユートピア思想を抱いて中国人との交遊を深めた。
孫文もまたそんな滔天の無私の志に対して全幅の信頼を寄せた。一九〇〇年の恵州蜂起では日本での資金や武器調達に奔走し、孫文、黄興ら在日の革命家を糾合して一九〇五年、革命同盟会を結成させた功績は見逃せない。
一九一一年、武昌蜂起が成功し清朝の支配が終わる。ヨーロッパに滞在していた孫文を香港まで出迎え、デンバー号で一緒に中国に凱旋した。翌年、孫文は中華民国の成立を宣言し大総統に就任する。滔天の人生の絶頂期だった。その前年に白山神社(文京区)で二人して見つめたハレー彗星の出現に革命の成功を託した夜の出来事が去来したはずだ。
自らの半生を描いた『三十三年の夢』(一九〇二年)は孫文革命の裏歴史そのもので、中国語にも翻訳され、多くの中国青年にも愛読された。一九二五年の復刻版に解題を載せた吉野作造は「友を隣邦に求めて先ず広く東洋全体の空気を一新して由って以て徐ろに祖国の改進を庶幾せんと欲する者」の一人だったと書いた。