中国青磁の故郷龍泉の昨今 岩間孝夫
【中国青磁最大の生産地龍泉】
中国に約20年住み、訪れた町は200ほどあるが、その中で一番好きな土地の一つが浙江省の龍泉だ。今まで15回ぐらい訪問しているが、行く度に新しい出会いに心はわくわくと踊り、古い歴史への思いや人間の原生活的風景に心が癒される。
龍泉は現在の中国では青磁や宝剣やしいたけの町として一部には知られているが、龍泉と言ってもそれがどこの省にあるのか、ましてどのあたりにあるのかを知っている人は中国人でも大変少ない。福建省に近い浙江省南西部にあり、総面積の約70%が山地という山に囲まれた静かな町で、人口は約27万。そんな小さな田舎町ではあるが、日本の青磁愛好家や青磁作りを目指す人たちにとっては一度は訪れてみたい聖地のような憧れの土地だ。
英語でChina のCを大文字で書けば中国、小文字で書けば陶磁器を意味するように、文字通り中国の代名詞とも言える中国陶磁であるが、そのchinaの黄金時代と言われ人類史上最も優れた作品の数々が作られた宋の時代、陶磁器の最高峰に位置づけられ皇帝の用に供されたのが青磁であり、龍泉はその最大の生産地であった。
【龍泉青磁の始まりと隆盛と終焉】
中国における青磁の製作は今から約2000年前の後漢時代に始まるが、龍泉では10世紀の五代の頃から始った。龍泉青磁の初期の色は青というよりもオリーブ色や灰色がかった青碧色であったが、それが北宋の頃から徐々に青みがかったものになり、南宋の頃に至りその美しいブルーを完成させた。その美しさは雨上がりの澄んだ青空に例えて「雨過天青」と称され、日本では「砧(きぬた)青磁」と呼ばれ、青磁の最上位に位置づけられ、鎌倉や室町の時代から多くの人々を魅了して来た。現在日本には中国陶磁で8個の国宝と65個の重要文化財があるか、そのうち国宝で3個、重要文化財で19個が龍泉窯のものであることからみても、日本人が古来いかに龍泉青磁を愛でて来たかが分かる。
そして南宋時代から全盛を迎えた龍泉青磁は以来元、明の時代を通し陸海のルートを経て東南アジア、西アジア、アラビア半島、アフリカ、ヨーロッパまで世界中の多くの国に中国の主要交易品の一つとして輸出された。
このような隆盛をみた龍泉青磁であるが、明末清初に至り、元代の中ごろから五彩や染付けなどを開発し急成長をとげた景徳鎮にその地位を取って代わられ、約700年の歴史にいったん幕を降ろした。
【300年後の復活】
全盛時代には最高峰の青磁として世界にその名を知られた龍泉青磁が300年の眠りから目覚め復活を開始するのは、新中国となってからの1957年、全国軽工業庁長会議において当時の周恩来総理が歴史的名窯の復興を呼びかけたのを受け、先ず龍泉窯と汝窯で国営の陶磁器製造工場が設立されたことに始まる。それ以来現代龍泉窯は焼製方法や釉薬の改良など試行錯誤を繰り返しながら徐々に復興への道のりを歩み始めたが、その歩みのスピードが急速に上ったのはこの10年のことである。その背景にはこの20年の中国の経済発展と高速道路網の充実がある。この20年ほぼ毎年10%以上の伸びで成長した経済発展は人々に美術工芸品や骨董品に目覚める機会を与え、また国土の隅々にまで張り巡らされ総延長距離が今やアメリカに次いで世界第2位となった高速道路網は、上海からなら550キロ離れ、かつては対向車とすれ違うのも苦労するような山沿いの細いでこぼこ道を車に揺られながら10数時間かけてやっとたどり着くような辺鄙な地であった龍泉まで今では約6時間でスムーズに行けるようになり、人々の往来の大幅な増加をもたらした。そしてまた、2009年に龍泉青磁の伝統工芸技術が世界文化遺産に登録されたことも追い風となった。
【800年ぶりの隆盛】
私が13年前に龍泉を始めて訪問して以来、行く度に毎回訪れる作家の一人が蘆偉孫さんだ。蘆さんは1962年龍泉に生まれ今年50歳。1983年21歳で龍泉陶芸技術学校を卒業後国営の青磁製造工場で働き始めたが、工場が97年に倒産したのを機に独立し自らの工房を立ち上げた。私が知り合った頃は町の片隅にあったその小さな工房で主として小皿や茶碗など小さな雑器を作っており、それらの価格は日本円で一つ数百円であった。
ところがその後、高級工芸美術師だけであった肩書きに浙江省工芸美術大師が加わり、そして今年には龍泉では6人しかいない中国陶磁芸術大師になった現在、10年ほど前なら1000元から2000元(15,000円から30,000円)だった彼の壺や花瓶の値段は今やその15倍以上となり、北京や上海のオークションに大型の皿や花瓶が出品されると時には20万元(約300万円)を超す値段が付くようになってしまった。
蘆さんほどその作品の値上がりが激しい作家は龍泉でも一握りではあるが、以前ならよほどの愛好家か仕入業者しか訪れなかった龍泉の町にも2006年末に高速道路が龍泉まで開通して以来、昨今では観光バスに乗った団体観光客が訪れるようになり作品の値段も押しなべて上昇、蘆さんが独立した頃には10軒ほどしかなかった工房も今では400軒以上に増えて(そこで働く人は1万人を超えている)互いに技術と作品を競い合っており、行く度に今度はどんな新しい青磁に出会えるかと思うとまことに心が躍る環境となった。
また、龍泉市内から渓流に沿って車で1時間ほど走った山間に、かつて500箇所以上あった龍泉窯の中でもとりわけ優品を焼いていたことで知られる大窯という小さな村がある。人々が暮らす家の周辺ではアヒルやガチョウやニワトリが放し飼いされており、村を歩いていると時おり豚や水牛とすれ違ったりするような、人間生活の原風景的な光景がまだ残る村だ。そして人家のある辺りを離れてちょっと山間の方に行くと、丘陵地帯のいたる所に窯跡や物原があり、宋や元の時代に焼かれた青磁の美しい陶片に出会うことが出来る。そういった陶片に出会い、遠く今から800年ほど前にそのあたりで焼かれ、船ではるばる日本まで運ばれ、多くの人を魅了した龍泉青磁の歴史に思いを馳せる時、たまらなくこの村に懐かしさを覚えてしまう。
龍泉までは高速道路がつながり団体観光客も訪れるようになったが、大窯村まで来る人は今のところまだ少ない。しかし近い将来高速道路が大窯村の近くまで開通する予定なので、その暁には今は静かな名品の故里にも観光客が訪れ、様相が一変する日が来るのかも知れない。