大崎上島で考えたこと 夜学会242
5月21日、22日と瀬戸内海の大崎上島に行ってきた。元広島女学院大学学長の長尾ひろみ先生がこの島で瀬戸内グローバルアカデミー(一般社団法人AUST)を運営している。私塾ではあるが、アメリカのアトランティック大学への入学資格が取得できる。すでに3人がこの私学を「卒業」してアメリカに渡った。「島で学んで世界に羽ばたく」がアカデミーのモットー。ここで身に着けるのは、学びの集中力と土との触れ合い。午前中は座学、午後は農園での労働が待っている。アカデミーは元ペンションを改装した施設が本拠。道路をはさんだ先は海浜、潮騒だけが聞こえる環境にある。旧回船問屋の大望月邸での授業もあり、それは趣きのあるものである。
今治と尾道をつなぐしまなみ海道はいくつもの橋でつながっているが、大崎上島に渡るにはフェリーしかない。僕は大三島インターで降りて宗方港から木江に渡った。フェリーは今治、竹原、呉、大崎下島、大三島とつながり、便数は決して少なくない。そして人の往来は想像以上だった。大島上島町には造船所が3か所もあり、人口も7000人を抱える。造船所には四国からも働きに来る。
島での2日間は驚きの連続だった。まず、ここらの海域は小説「海豹の如く」(賀川豊彦著)の舞台となったところだった。主人公村上勇は隣りの大崎下島御手洗の出身で、かつて瀬戸内で最も栄えた木江港の活気ある生活が描かれている。御手洗から船で尾道を目指すと「右手の木江を過ぎると左手に大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の黒い森が見える」などと描写される風景がそのままあった。今では来島海峡がメインの航路となっているが、かつては島影をめぐる木江沖が主たる瀬戸内航路だった。村上水軍の歴史は古く、平清盛の時代から瀬戸内の海運を担ってきた。水軍を保持するには造船能力は不可欠だった。江戸時代の北前船の多くがここでつくられ、明治になって鉄の船になってからも日本の海運を支えたのもこの海域の人々だったことが思い起こされる。この島には広島商船高専がある。全国に5校設置されている商船高専の1つである。全国から700人の学生が今も学ぶ。この学校は大崎上島の回船問屋だった望月東之助ら民間人が明治30年に設立した芸陽海員学校が始まり。「船を造り海員を育てる」。後の海運王国日本の基礎が瀬戸内の小さな島で築かれたのだった。神功皇后による三韓征伐、遣隋使、遣唐使といった古代からここらの海域に住む水軍はグローバルな知識を持っていたはずだ。その地で瀬戸内グローバルアカデミーを始めた長尾ひろみ先生の発想力は確かなものだと考えた。
幕末の志士たちの活動もまた海路に頼っていたことを思い起こさせてくれた。大崎上島出身の作家、穂高健一のホームページによると、2014年、大崎上島の大望月邸の解体修理中、襖の下張りから「桜田門外の変」の略図と書状が発見されたとある。「幕末志士たちは西国を行き交う時、陸路でなく、その多くは海路を利用していた。芸州広島の御手洗・鞆の浦などはありとあらゆる志士が上陸している。とくに御手洗の遊郭が情報交換の場だった。(京都や長崎よりも安全な密議ができた)」。「望月氏はこの御手洗航路の最も大手の海運業者だった。なんらかの理由で、例えば、貧しい脱藩志士から船賃替わりで、貰いうけたとか…」「あるいは、井伊大老暗殺に無縁でない薩摩藩の幕末志士が、秘かに持ち歩いていた可能性がある。「二十歳の炎」第5章でくわしく展開しているが、御手洗港は、薩摩藩の海外密貿易の拠点であった。港には薩摩邸があり、同藩士6-7人が常駐していた。望月氏が、薩摩藩士と親しくても、なんら不思議ではない」。
御手洗に渡るとそこは保存地区となっていて、江戸時代からの邸宅が数多く残っている。穂高氏が言うように、幕末の多くの志士が御手洗を度々訪れている。「謀議」を諮るに安全だったのか、坂本龍馬も桂小五郎も、西郷隆盛も逗留したというから興味深い。いまや空と陸の時代になってしまい、海の視点がおろそかにされている。日本の物流、人流の幹線が海路だったことを見直さなければならない。2日間の島の旅からそんなことも考えさせられた。(萬晩報主宰 伴武澄)