スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還
執筆者:林 正夫【SubhasChandraBoseAcademy事務長】
以下は4年前、Subhas Chandra Bose Academy事務長の林 正夫氏から4年前に預かった貴重な手記である。ボースの遺骨を50年以上にわたり守ってきた老人のインドに対する思いを込めた手記である。なぜインド人はインド独立の獅子の遺骨を引き取らないのか。悲痛な手記である。できればインド人にこの手記を読んでほしい。
印度独立運動の志士、スバス・チャンドラ・ボースが昭和20年8月18日、台北松山飛行場に於て不慮の事故死を遂げてから、今年は仏事で50回忌を迎えることになる。
印度独立の待望のためには世界の大勢と印度の立場からガンヂー、ネルーとも離れ、断食によって仮出獄をして遂に印度からベルリンへの決死的脱出を決行し、日本軍のシンガポール占領にともない、印度洋上独逸潜水艦より日本の潜水艦へ劇的な移乗を決行してまで、日本を信じて日本と共に戦い、しかも悲運な戦局に至るも、最後まで信念を変えることなく逝ったボースの遺骨が、今もなお母国に還ることもならず異国に在ることは、ボースを知る者の一人としてもどかしさを感じてならない。
「ネタージ」(インド語で指導者)の遺骨は遭難後荼毘に付され9月東京に送られた。遺骨を渡された印度独立連盟のラマ・ムルティとアイヤー両氏はお寺に預かって貰うことにしてお寺を探したが,終戦直後の不安な世相ではどのお寺からも拒絶された。途方に暮れている時、蓮光寺の先代住職の快諾を得て安堵の胸をなで下し、預けたまま今日に至っている。以来、蓮光寺では8月18日の命日には毎年慰霊祭が継続されて来た。
昭和25五年サンフランシスコ平和条約の頃になると、印度大使館よりチエトル氏、外務省からは儀典課長田村幸久氏が来寺し、引き続き5月頃にはボンベイから情報官のアイヤー氏、さらに印度大使館よりチエトル氏、改めてラウル大使も来寺するやら、印度側の関心が深くなって来たことを感じてくる。
昭和28年11月先代住職はネール首相に大使、遺骨の処置について問い合わせの手紙を出したところ、翌29年1月ネール首相の代理として大使館より2名の使者が来て『遺骨は大切に預かって今後も大切に回向してくれる様に』との返事が有ったことを伝えた。
昭和31年5月、第1回死因調査団が来日した。団長がシャヌワーズ・カーン将軍であることを知り最高に嬉しかった。私がマレーからラングーン、さらにインパール戦線、イワラジ戦線と常に行動をともにした信頼する将軍である。帝国ホテルで顔を見合わせた時、お互いに無事であることを喜び、堅く手を握り合った感激は忘れることは出来ない。
そして苦心の末、歓迎会を日石の南元荘で催すことにした。出席者はシャヌワーズ団長、ネタージの実兄サラット・ボース氏、アンダマン・ニコバルの司政官マリク氏の三名。日本側から河辺正三氏、桜井徳太郎氏、光機関長だった磯田三郎氏それに金子昇、遠藤庄作、林の元機関員、日石から福島、山崎の両氏で岩畔豪雄氏は都合が悪くて欠席された。暫し話がはずんだ後で愈々遺骨の話になった時、シャヌワーズさんは『遺骨は飛行機か巡洋艦で迎えに来たい』と打ち明けられ、吾々は喜び合ったことを忘れることは出来ない。
しかしその後、調査団の帰国を羽田空港に見送りに行った時、岩畔さんと私に向かってサラット・ボース氏が『ネタージは死んでいない』と言いだしたのに唖然とするばかりであった。怒ったシャヌワーズさんとマリク氏は別れを告げて先に階段を降りていったが、サラット・ボース氏は出発時間ギリギリまで『ネタージは死んでいない』と言い張っていた。
この時の『ネタージは死んでいない』との発言の真意は、肉親の情や複雑な印度国内事情を反映したものと思われるが、この時の調査団の不一致がその後第2第三の調査団の派遣を繰り返すことになり、現在に至るも解決出来ない要因であろう。
この第1回調査団の結果は、10月になって外務省より報告書が来た。
要約すると『委員会は本事件に関する殆どすべてを網羅しているので承認されるべきである。要するにボース氏は台北で飛行機事故のため不慮の死を遂げ、現在東京都蓮光寺にある遺骨は、同氏の遺骨であると認められる。そのボース氏の遺骨を将来インドに持ち帰り、適当の地に記念塔を建立する必要がある。ここに永年にわたり大いなる崇敬の念をもって遺骨の保護に当たってこられた蓮光寺住職に対し深甚なる謝意を表したい』と。
この外務省からの報告書によって印度側では死因を認め遺骨を引き取ることを認めていることが判るのにその後の経緯は殆ど進展しないのは不可解である。
昭和32年10月には、ネール首相は愛娘インデラ・ガンヂーを連れて蓮光寺にお参りして署名もしている。翌33年10月にはブラサド大統領もお参りして署名している。
昭和33年1月23日、ネタージの誕生日を記念してスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは発足した。そして遺骨を一日も早く母国に返還することに力を注いだのも虚しく歳月の経過はこの間に初代の渋沢敬三会長に続いて、昭和40年には河辺最高顧問のご逝去、更に橋本事務長の逝去と悲報は続く。
二代会長に就任された江守喜久子女史は熱心に運動を進めるため、高岡大輔氏の協力を得て、昭和42年12月、江守会長と高岡氏、林の3人が三木武夫外相(当時)を外務省に訪ね、協力を懇願した。これが縁となり、外務省南西アジア課長にも再三懇願することになる。その後、江守会長は印度独立記念日にインド、カルカッタのチャンドラ・ボース・アカデミーより特別に招待を受けて印度を訪問した。
旧INAの幹候たちと会見して遺骨返還を細部にわたり話し合ってきた。一方、藤原岩市氏は印度に於いて遺骨返還のため遂に当時のラオ外務大臣に直接話しを進めていることを知り、解決近しと喜ぶもその後の情勢は遅々として進展なし。
昭和50年になると林も印度に渡り、経済企画長官に就任したシャヌワーズさんを訪ねて印度の状況を聞く。情勢は変わらねど将軍の情熱は決して変わらないことを知り安堵して帰る。こうした状況下に歳月は過ぎてゆく。昭和53年33回忌に江守会長の病いは重く入院されて間もなく還らぬ人となり悲しみは深くなる。
第三代に就任された片倉会長は年齢的なことを考慮して金富与志二氏の尽力により、藤尾政調会長を動かし、安倍外務大臣に片倉会長が面接する機会に恵まれた。翌年の四月には中曾根総理の印度訪問が決定したことで、藤尾政調会長の斡旋により、高倉会長、金富、林の三人は総理の執務室で経過を説明し返還の実現を頼み込んだ。
同時に外務省南西アジア課長川村氏や鈴木茂伸氏にも再三請願するも空しく終わる。前年林が印度に渡航した際、シュヌワーズさんから『目下、大統領に話を進めているので今度は実現できると思うから、日本の方々にこの話を伝えて欲しい』と聞いた私は飛び上がる程喜び勇んだ。帰国早々、会長や会員の方々に伝えて吉報を鶴首している折り、シャヌワーズさんの死亡を知らせてくる。私の落胆はどん底になっていく。
年は移り、平成2年の春、林は心臓手術で入院中、金富さんの力添えで海部首相の訪印に際し遺骨返還を印度政府に要請することが出来たのは何よりであった。
同年8月、45回忌を迎えるに当たり、故江守喜久子会長の次女の松島和子さんから永代供養の申し出があった。この機会に記念事業として蓮光寺境内にネタージの胸像を建立し、『ネタージと日本人』の本も出版することが出来た。更に印度からネタージと関係の深かった9名を招待することが出来て予想以上の盛大な行事であった。
この45回忌と同じくして先に海部総理に請願した返電が印度政府から外務省宛に届いた。『印度国内に於いてネタージの死を否定する訴訟が行われており、その裁判の結果が出たのち遺骨返還を前向きに検討する』。吾々は公式の返事であるからこの返電を大切に拝受することにした。
その後の経過は、片倉会長のご逝去、続いて高岡大輔氏も亡くなり、間もなく有末精三氏にも別れ、悲しみは続いて平成6年に移る。そして春が来たら印度から思いもよらぬ人が来た。一人はネタージの妹の息子のアシス・レイさん。もう一人はプラデップ・ボースさんである。
レイさんとは会えなかったが、プラデップさんに会って驚いた。40年前第1回の調査団で『ネタージは死んでいない』と言い続けたサラット・ボース氏の息子である。私は『貴君の父が反対したため半世紀になっても未だ解決出来ないのだから、君が解決する様に努力してくれ』と頼んだ。まだ色々と話をしたかったが、彼は『朝日新聞と会う時間が来た。いずれ手紙も出すから』と別れたまま、未だに何の連絡もない。
そして今年の50回忌の打合せで蓮光寺に行き住職に会ったら『アシス・レイという人が大使館から通訳が来て「遺骨が真物か偽物か調べたい。出来れば顕微鏡で確認したい」と言った』ので、住職は『日本政府と印度政府の許可がないと駄目だ』と返答したことを聞いて私は腹が立った。
そして若し顕微鏡まで持ってきて確認せねば信用出来ないというのであれば持っていってくれなくても良い、日本人が今日まで大切にしていた真心を何と心得るのだと言う私の言葉に住職も同意してくれた。
要するに遺骨の返還が半世紀を経て未だに解決出来ぬ原因の一つは第1回の調査団の時のサラット・ボース氏が『死んでいない』と反対したことである。
第二はネール首相が政敵であったネタージに対して多少憎しみがあったことで遅れたと思っている。日本軍がビルマに進駐したとき、中立的立場に変わったガンヂーに反して親英的なネールは抵抗するため中国まで飛び援蒋ルートに力を尽くしたことでも明白である。
更に問題になったラマ・ムルティ氏から渡されたネタージの宝石箱を発表することなく秘密裡にしていたことでも判る。後半デサイ内閣になってこの宝石箱のことが発表されたが親日的であった静的ボースに対する何らかの感情が有ったと思うのは偏見だろうか。(1994年8月18日記)