カルテル武装列島の四半世紀(1)
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
作家の村上龍さんが主宰するJMMというメールマガジンで最近「戦後転換期はいつか」という質問を読者に呼びかける興味深い試みがあった。
2月6日までに寄せられた回答は32で、その結果をおおまかに分類すると以下のようだったという
1.1970年代
2.1972年 ニクソンショック
3.1985年 プラザ合意
4.1989年 東証最高値記録からのバブル崩壊
5.1997年 拓銀、山一証券の破綻
●アメリカの退潮が鮮明になった時代
多くの読者が「1970年代」に注目したのは炯眼であると思う。いまから考えれば信じられないかもしれないが、60年代後半から70年代は東西冷戦構造の中でアメリカの退潮が鮮明になった時代であった。
70年代を象徴した出来事は「アメリカのベトナムからの撤退」である。まもなく「ニクソンショック」によるドル暴落の時代が始まる。西側を次に襲ったのはオイルショックである。ソ連を中心とした東側陣営が軍事宇宙で優位に立ち、ドルの優位が揺らぎ、アラブまでもが反逆したのである。
日本の経済的台頭もアメリカとって脅威のひとつだったはずであるが、あくまでも日米安保の範囲内での出来事だった。ニクソンショックは日本からみれば1ドル=360円という固定相場が終わった時代である。
問題は、当時の日本に円高をプラス思考で考える人がいなかったことである。オイルショックは日本経済に大きな影響を及ぼしたことはまぎれもない事実だが、一時期1ドル=200円を下回った円高によって原油価格の高騰が相当程度吸収されたことは意識されなかった。
国際的にみれば西側の退潮が鮮明になるなかで西側経済のエンジン役をはたし得たのはひとえに円高のおかげなのである。にもかかわらず「円高は悪」という認識が広く日本全体を覆い、いまだにその認識が改められていない。通貨暴落で苦しむ国は枚挙にいとまがないが、日本以外に通貨高を恨んだ国家はない。
歴代の政治リーダーは「輸出こそが国力だ」と考え、円高を矮小化してきた。歴史の転換点にあって歴史観を持たないリーダーを抱え続けた日本の悲劇である。
●ソ連の追い上げで大きく揺らいでいた西側陣営
萬晩報は「戦後日本の転換点」について1998年04月17日付「日本経済を変質させた石油危機とサミット」で取り上げた。戦後日本社会の「変質」を説明するにあたって「石油ショックを契機にカルテルが容認された」ことに重きを置いたコラムである。
フランスのディスカールデスタン大統領の提唱でサミット(先進主要七カ国首脳会議)が始まったには1975年のことだった。第一回会合はフランスのランブイエだった。なぜサミットが必要だったかという問いかけについては、冷戦対立が深刻化するなかで西側自由主義経済の絶対的優位がソ連などの追い上げで大きく揺らいでいた点を見逃すわけにはいかない。
特に軍事・宇宙など最先端技術の追い上げは急ピッチに見えた。アメリカにとって核技術だけでなく、ミサイルにつながる宇宙ロケット、情報探査に役立つ地球衛星など広範囲なハイテク分野での競争でますます脅威にされされた。ロシアがサミットの一員として招かれる今日から考えればウソのような話だが、サミットという枠組みがソ連への対抗上生まれた事実は忘れてはならない。
1970年代のアメリカは、ベトナム戦争の泥沼化で経済的に疲弊した。1971年、ニクソン大統領はドルの金兌換を一方的に廃止し、2年後の73年には主要各国の為替は変動相場制に移行した。戦後世界を位置づけていたアメリカによる軍事と経済の絶対的優位が崩壊した分水嶺となった出来事だった。
先進国経済の秩序とバランスが崩れるなかで起きたのが、1971年末の石油輸出国機構(OPEC)による原油価格の大幅引き上げだった。石油ショックは主要先進国のインフレと財政赤字に追い打ちをかけ、経済力の序列が大きく変わった。ただ経済復興に成功した西ドイツと日本の経済的プレステージは上昇したものの、アメリカに取って代わるほどのパワーを持ち合わせていたわけではない。(続)