寶田時雄氏の「請孫文再来」を探訪する
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
先週の3月12日は中国の革命家、孫文(1866-1925)の命日だった。1年前、寶田時雄さんの「請孫文再来」のホームページつくりをお手伝いし、めるまがとしてメルマガで連載することをすすめした。連載はすでに終わっているが、いまだにホームページには相当数の来訪者がいる。
寶田さんは東京都板橋区でレストラン「GREENDOOR」を経営しながら、孫文を中心とした中国革命と明治後期から昭和初期にいたる日中関係史を生き様に据えている。日本が大陸を侵略したという歴史がある一方で、孫文の中国革命に多くの日本人が参画し、影になり日向になり支えていた歴史がある。免罪符ではない。寶田さんには「そういう歴史が現実にあったということを伝えておかなければ」という思いがある。
●脱亜入欧の厳しさ
中国革命における津軽の山田良政、純三郎兄弟、熊本の宮崎滔天三兄弟はひと際目立った存在だった。特に宮崎滔天(1871-1922)は「三十三年の夢」(平凡社)という名著を残し、幕末から日本に芽生えたアジア主義の系譜を詳述している。犬養毅は政治家として、頭山満は精神的支えとして、孫文の歴史に度々登場し、三井物産もまた資金協力者として見え隠れする。日本がアジアだった時代である。
明治国家が生まれ、近代を超克する過程で、思想的に二つの潮流があった。一つは「西洋に追いつけ」である。和魂洋才といいながらどんよくに西洋の文物を取り入れ、一方でアジア的なものを切り捨てるという「脱亜」の流れである。もうひとつの反対の流れは「アジアと共闘して西洋列強と対峙せよ」という主張である。
明治政府の最初の課題は幕末に西洋列強から強要された不平等条約の改正だった。中国のWTO(世界貿易機関)加盟に当たって、先進国にグローバルスタンダードを強要されているここ数年の世界を取り巻く環境とはいささか状況が違う。
弱肉強食の帝国主義が全盛だったから、列強の仲間入りをはたすまでのハードルは並大抵ではなかった。列強に認められるために必要だったのはまず「強兵」だった。軍事力で列強と並ぶためには「富国」は不可欠だった。
富国のため数少ない輸出競争力を持っていた生糸産業の振興が図られ、その歪みとして国内的には「女工哀史」を生んだ。日本には大型艦船を建造する能力などなかったから、日清、日露戦争を闘った艦船はほとんどがイギリスやドイツで建造された。いわんやODAなども一切ない。だから日本は当時の国際金融資本から借金した。返済が出来なかったら、関税など国家機能の一部が担保として取り立てられる厳しい条件だった。
財政から科学技術にいたるまで多くのお抱え外国人が日本の近代化に貢献した。貢献したといっても当時の内閣総理大臣をはるかに超える年俸を保証した。多くの国費留学生もまた先進国に学び、その次の世代のリーダーとして育てられた。ここらの日本をめぐる国際環境の厳しさは教科書的に「脱亜入欧」と一言で片づけらるようなものではなかった。
そんな日本が第一次大戦で戦勝国側に立ち、棚からぼた餅的に世界の「一等国」の仲間入りをはたす。そして勝ち組として中国大陸にあったドイツの橋頭堡である山東半島の利権を手に入れ、太平洋に拡がる南洋群島を実質支配下に置くこととなった。明治日本を引っ張ってきた「アジアの国としての矜持」が大きく後退し、日本の慢心がここから始まる。
●届かなかった孫文の悲痛な叫び
そのころ中国は辛亥革命で清朝を崩壊させたものの、統一を失った広大な大陸は各地の軍閥による分割統治が進み、それこそ欧米による草刈り場となった。日本はというとヨーロッパ諸国が欧州大陸で総力戦を戦っている最中に満州を中心に大陸での覇権を強化していった。
孫文は1911年に辛亥革命に成功し、中華民国の臨時大総統に就任したものの、大総統の地位は翌年ただちに袁世凱に奪われた。孫文は広東を中心とした一地方政権を担っていたにすぎなかったことを思い知らされ、共産主義政権が生まれたばかりのソ連に接近する一方で、日本との提携の可能性も模索し続けた。
今でいう当時の中国大陸の沿岸部は実質的に英仏に支配されていたこともあって、日本に頼ろうとする姿勢になんら不自然さは感じられない。少なくとも日露戦争に勝った直後の日本という国は植民地支配にあったアジア諸国にとってまばゆいほどの存在に映っていたことは間違いないからだ。
だが世界の「一等国」に上り詰めた当の日本には、明治維新で不平等条約に悲憤慷慨した政治家もアジアとともに苦悩を共有しようとするステーツマンももはやいなかった。孫文の地方政権は欧米はもとより日本にも大陸を代表する勢力として認知されることは一度もなかった。
孫文は亡くなる前年の1924年、神戸で有名な「大アジア主義」と題して講演し、日本にアジアの心を取り戻すよう呼びかけた。日本の聴衆に「ヨーロッパのように覇道を求めるのかアジアの王道を歩むにか」と問い詰めた。すでに日本という国家は大陸支配に向けてさらに一歩踏み出していたから、孫文の悲痛な叫びが日本の政治の中枢に届くはずもなかった。
当時の孫文は満州における日本の利権に一定の理解を示していたのだが、日本という国家はそれに満足しなかった。イギリスの植民地支配の狡猾(こうかつ)さは間接統治の巧妙さにみられる。逆に日本の植民地支配はなんでも直接手を下さないと気に入らないという稚拙さがあった。
歴史に「もし」はないが、当時の日本政府が、苦境にありながら中国民族のこころをつかんでいた孫文に肩入れしていたならば、その後の世界の歴史はどれほど変わっていたかと思うと残念でならない。日本政府が辛亥革命後に大総統に就任した袁世凱を交渉のパートナーとしたのは仕方がないことかもしれないが、群雄割拠後も北京の北洋軍閥に肩入れし、孫文は終生、日本政府から交渉相手とされることはなかった。
●革命前夜の日中関係史
津軽の山田良政は孫文の第一回目の蜂起となった1900年の「恵州起義」に参加して命を落とした。孫文の革命の黎明期に命をかけた日本人がいたということは歴史の救いである。山田良政の遺志は弟の山田純三郎に引き継がれ、さらにいとこの佐藤慎一郎に引き継がれた。中国の革命世代はこれらの日本人の名前をよもや忘れはしまい。だがそうした革命世代ももはやこの世を去った。
戦前に日本が大陸を侵略した歴史を否定しようというのではない。1980年代以降のアジアの経済発展はめざましいものがある。今世紀アジアの中で先頭を走り続けてきた日本を追い越す勢いさえある。そんな中で中国革命に共感し身を捧げた日本人がいたことを語り継ぎたいと思う。
興味ある方はぜひ「請孫文再来」http://www.thinkjapan.gr.jp/~sunwen/を訪れてほしい。
孫文が1924年行った「大アジア主義」と題する講演
1924年11月孫文が神戸で頭山満と会談した翌日、現兵庫県庁隣の旧神戸第一高等女学校講堂で講演。中国語で行われ日本語に通訳された(「孫文講演・大アジア主義資料集」法律文化社刊より)。
(1)文化の發祥地(12月3日)
諸君、本日諸君の最も熱誠なる歡迎に應じて自分は誠に感謝に堪へぬのであります、今日皆さんに申し上げるところの問題は、即ち大亞細亞主義であります。
惟ふに我亞細亞といふものは即ち世界文明の發祥地である。世界最初の文化は即ち亞細亞から發生したものであります(拍手)。今日欧羅巴の一番古い文化の國である所の希臘の文化にしても、又羅馬の文化にしましても、夫等の文化は總て亞細亞の文化から傳へられたのであります。我亞細亞の文化といふものは一番古い時から數千年前から、政治の文化にしましても、道徳的文化にしても、また宗教的文化、工業的文化、總て世界のあらゆる文化といふものは、悉く亞細亞の文化から系統を引いて居るのであります。
近來に至りまして・・・最近の數百年になりまして亞細亞の各民族が段々衰頽しまして、そして欧羅巴の各民族が段々強盛になりました。その結果、彼らは支那に向かって、――彼らの力を持って亞細亞に壓迫を加へました。さうして亞細亞における各民族的國家といふものは段々彼等に壓迫され、亡ぼされ、殆ど今から三四十年前までは亞細亞において一つの獨立したる國家といふものはなくなったのであります。大勢茲に至って、即ち機運が非常に衰頽し、亞細亞の運命が衰頽の極にあって、そしてこの機運がこの三十年前に至って愈々復興の機運になったのであります。
この三十年前において亞細亞の復興機運が發生したといふはどういふことから認められるかといふと、即ち三十年前において日本國が各國との間に存在した所の不平等條約、平等ならざる條約の改正を得たといふ時から、亞細亞民族といふものが始めて地位を得たのであります(拍手)。この日本の條約改正によりまして、日本が獨立したる民族的國家となりましたけれども、其外の亞細亞におけるかく民族國家といふものは、總て獨立したる國家ではなく、總て歐米各國の植民地の境遇にあ居るのであります。
我中國であっても、また印度、波斯、亞刺比亞、その他のあらゆる亞細亞の民族で國家といふは總てまだ植民地といふ境遇に居るのであります。さう考へると日本といふ獨立したる民族的國家の建設せられた所以は、即ちお國の國民が努力して、この不平等なる條約の撤廢、廢止それから得たのでありまして、その後段々亞細亞の各民族的國家に亘りまして、亞細亞の獨立運動といふものが、だんだんその機運が熟してきたのであります(拍手)。
三十年前におきまして亞細亞の人間は、歐羅巴の學術の發達を見、また歐米各國の殖産興業の發達を見、彼等の文化の隆盛を見、又武力の強盛を見ても、迚も我亞細亞各民族が歐州人種と同じやうな發達を致すといふことが出來ないといふ觀念を持ったのです。これが即ち三十年前における亞細亞民族の考へである、處で日本の條約改正によって亞細亞の民族は始めて歐羅巴の壓迫から遁れることが出来るといふ信念を持ったのであります。けれども尚を全亞細亞民族に傳へるだけの力を持たず、それから十年たつて日露戰争が始まり、日本が歐羅巴におけるもつとも強盛なる國と、戰つて勝ったといふ事實によって、亞細亞の民族が歐羅巴の最も強盛なる国よりも強い、又亞細亞民族が歐羅巴よりも發達し得るといふ信念を全亞細亞民族に傳へたのであります(拍手)。
自分の見分する所知る所を之から諸君に申し上げます。日露戰争當時自分は仏蘭西の巴里に居りました。丁度その時日本の艦隊が日本海において露西亜の艦隊を撃破したといふ報が巴里に傳はつた。それから數日後に自分は巴里を去って蘇士の運河を經て歸國の途に就いたのであります。さうして蘇士の運河を通過する時、亜剌比亜の土人――蘇士の運河の土民が大分船に入つて來て、自分の顔が黄色民族であるのを見て、自分に『あなたは日本人であるか』とききましたが、さうぢやない自分は支那の人である。
日本の人でないといふことを答へて、さうしてどういふ事情であるかと聴いたら、その人達が『我々は今非常に悦ばしいことを知った。この二三ヶ月の中に、ごく最近の中に東の方から負傷した露西亜の軍隊が船に乘つて、この蘇士の運河を通過して歐羅巴に運送されるといふことを聞いた。是は即ち亞細亞の東方にある國が歐羅巴の國家と戦つて勝つたといふことの證明である。我々は、この亞細亞の西における我々は、亞細亞の東方の國家が歐羅巴の國家に勝ったといふ事實を知って、我々は恰も自分の國が戰爭に勝つたといふことと同じやうに悦ばしく思つて居る』といふのでありました(拍手)。
彼等はアジアの西の民族である。亞細亞の西における亞細亞民族は一番歐羅巴に接近して居つて、一番歐羅巴の國家の壓迫を受けつつある。故に彼等は、この亞細亞の國家が歐羅巴の國家に勝ったという事實を知りまして、亞細亞の東の民族よりも、國民よりも非常に悦んだのである。その時から始めて埃及の民族が獨立、埃及国の獨立運動というものが始まつた。それから亞刺比亞民族も、波斯の民族も、土耳其も、又亞富汗尼斯担も、印度においても、印度の民族においても總てその時から初めて獨立運動といふのが盛んになつたのであります(拍手)。
(2)王道の文化(12月4日)
日本が露西亜と戰って勝つたといふ事實は、即ち全亞細亞民族の獨立運動の始まりである(拍手)。それ以來二十年間におきまして、この希望、運動が益々盛んになりまして、今日にあつては埃及の獨立運動も成功し、又土耳其の獨立も完全に出來上り、波斯の獨立も、又亞富汗尼斯担の獨立も成功し、さうして印度の獨立運動も益々盛んになる次第であります。これらの獨立運動、獨立思想といふのが亞細亞の各民族に起りまして、さうして西方の亞細亞民族は總て此獨立運動の為に結合し、非常に大なる團結運動に着手しつゝある、けれども唯亞細亞の東におきまして、日本と我國とのこの二國の結合、連繋といふのが未だ出來てゐないのであります。斯ういふ運動、總てこの亞細亞の民族が歐州民族に對抗して亞細亞民族の復興を圖るのであるといふことは、歐米の民族が非常に明白に觀ております。
この亞細亞民族が眼を醒ましたといふことを、歐米人がどう觀て居るかといふと、この最近米國の學者が一の書物を作りました。その書物にどういうことを論じているかといふと、彼等は亞細亞民族の覺醒といふのは即ち亞細亞民族が世界の文化に對する謀叛であるといふのです。この米國の學者ストータといふ人が作つたこの書物の名は即ち「文化の謀叛」といふ名であります。
即ち彼等が亞細亞民族の覺醒したといふ事實を觀て、是は世界の文化の一の危険であると論じてあるのであります。この書物は、出版されてから僅かの日數を以て數十版を重ね、さらに各国語に翻譯され、歐羅巴の人も、亜米利加の人もこの本に論じてあることを殆どバイブルに書いてあることのやうに非常に尊重して居る次第であります(拍手)。
この書物に論ぜられた亞細亞の覺醒といふ事も矢張り日露戰争が始まりであると論じゐる。さうしてこの亞細亞民族の覺醒といふのを世界に對する威嚇であり世界の文化に對する不穩であると彼等は觀て居る、即ち彼等は、歐米民族だけ世界の文化に浴せらるゝこの權利がある、亞細亞民族といふものは決して世界の文化に浴せられる権利を持ってゐないと彼等は觀て居り、信じて居るのであります(拍手)。
歐州民族の考へでは、彼等は世界文化といふのは單に彼等が持って居る文化――彼等の文化といふのが即ち一番高尚な文化であると思つて居る。成程此數百年來歐羅巴の文化は非常に發達しました。彼等の文化は我東洋の文化より進んでゐた。東洋の文化はこの四百年において確に歐州文化に及ばないけれども、彼等の文化といふのは何であるかといふと、即ち唯物質的文化であり、又武備武力によつて現れる所の文化である(拍手)。
即ち亞細亞の昔の言葉を以て評すると、歐州の文化といふのは覇道を中心とする文化でありまして、我亞細亞文化といふのは王道であります。王道を中心とする文化であります。彼等は單に彼等の國を以て我亞細亞を壓迫し、亞細亞民族を酷使する道具である、故に近來歐州の學者で東洋の文化といふのは道徳的で、道徳的文化に至つては、彼等よりも歐州の文化よりも進んで居るといふことを段々認めて來たのであります。
一番著しい事實といふのは、即ち近來歐州の文化といふものが発達して以來、世界的道徳、国家的道徳といふものが非常に衰頽して來ました。さうして昔この亞細亞の文化が非常に発達した時代では國家的道徳が非常に進んでゐたのであります。今から二千年前から五百年前までの間といふのは即ち我國の一番強盛な時代である。世界において二千年前から五百年前までの間の支那といふのは世界における最も強盛なる國であり、第一の國である。今日の英國、また米國を以て比べても尚我國のその時代における世界的地位に及ばないのである(拍手)。
その時に亞細亞の南、又亞細亞の東、又亞細亞の西、亞富汗尼斯担邊りまであらゆる邦國、又あらゆる大陸的國家、民族が總て我國に来朝した。我國を祖國と思ひ、喜んで我國の屬國となつてゐましたけれども、これらの屬國に對して何をしました。また之等の屬國、領土を得ましたのは、果たして海軍の力を用ひて征服したのであるか、或は陸軍の力を用ひて征服したのであるか、決してさうではない。單に我國の文化に浴せられまして悦んで心服して我國に来朝しただけであります。
この事實は今日になりましても尚はつきり證明し得る證據があるのであります、亞細亞の西蔵の西に二つの小さい國がある、極く小さい國である。一は即ちブータンであり、即ち一はネパールでありまして、この二つの小さい國の一つのネパールは小さな國ではあるけれどもその民族といふのは非常に強い民族である。今日英國の印度に於いて用ひて居る軍隊の一番最も強いコーカストといふ軍隊は即ちネパールの民族を用ひたのであります。英國はネパールといふ國に對して非常に尊敬し、出來るだけネパールに尊敬を拂いました。さうしてあらゆる工夫をして漸くネパールへ一人の政治を研究する人を寄越すことが出來た。
この英國があらゆる禮譲を盡くし、さうしてあらゆる方法を以てネパールに厚意を表した所には即ちネパール民族が非常に強い民族であり、英國がこのネパール民族を、コーカスト民族を利用して、それを用ひて、これを軍隊にして、この印度の鎭壓に使ふといふ目的を持つて居るからである。英國が印度を滅亡したのには既に非常に長い時間がたつて居るけれども、このネパールといふ國は英國に對して今日尚獨立の態度を以て英國に對し、決して英國を自分の上國、祖國であると思つてゐない、さういうことを感じてゐない。
我國は非常に弱くなつてから既に數百年たつて居る。けれどもこのネパールといふ國は今日になっても、この最も国力の弱い我國に對しては従来の通り我國を上國と思ひ、又我國を彼等の祖國であると觀て居るのであります。さうして民國元年までこのネパールの國は依然として祖國の禮を以て我國に來朝した事實があつたのであります(拍手)。
その事實を見れば是は實に最も奇怪なる事實であると見るのであります、この一の事實を見れば即ち歐州文化と東洋文化の比較といふのがこの事實によつて非常に明白となり得るのである。我國は衰頽して以來既に五百年たつた。この五百年も衰頽した我國を尚ネパールは祖國と思ひ、上國と認めてゐる。一方英國は今日世界中に於ける最も強盛な國であるけれども、ネパールといふ國は如何に英國が強くてもまだ彼は自分の祖國であるといふことを認めていない。この一つの事實は即ち東洋の民族は、この東洋の文化、この東洋の王道により文化に信頼を持つて居るが、歐州の覇道を中心とする文化に對しては決して信頼して居らぬのである(拍手)。
●(3)日本と土耳其
大亞細亞問題といふのは何ういふ問題であるかといふと、即ち東洋文化と西洋文化との比較問題である。即ち東洋文化と西洋文化との衝突する問題である。この東洋の文化は道義仁義を中心とする文化でありまして、西洋の文化といふのは即ち武力、鐵砲を中心とする文化である。それでこの道義仁義を中心とする文化の感化力といふものはどれだけあるかといふことは、即ち五百年間衰頽して來た所の我國に對して尚ネパールといふ國が今日になつても我國を祖國であると認めるといふ一の事實が即ち仁義道徳の感化力のどれだけ深いといふ事を説明するのであります(拍手)。
さうして西洋文化、、武力による文化の力がないといふ事は即ち今日英國の武力をもつてしても、尚英國の勢力である所の埃及と、又は亞刺比亞、又波斯の至る處においてこの獨立運動、革命運動といふのが起り、若し五年間英國の勢力が衰頽したならば、即ち總ての英國の屬地といふものが悉く獨立運動を起して英國に反對するのであります。夫は即ち東洋文化と西洋文化との文化の何方の文化が良いかといふ事を證明するのである(拍手)。
それでこの大亞細亞主義といふのは何を中心としなくちやならぬかといふと、即ち我東洋文明の仁義道徳を基礎としなくてはならぬのである(拍手)。
勿論今日は我々も西洋文化を吸収しなくてはならぬ。西洋の文化を學ばなくてはならぬ、西洋の武力的文化を採り入れなければならないけれども、我々が西洋文化に學ぶといふは決して之を以て人に壓迫を加えるのではなく我々は單に正當防衛のために使ふのである。歐州の武力による文化に學んで非常に進んだのは即ち日本でありまして、今日日本の海軍力も陸軍力も自國の人により自國の技術により、製造力により海軍をも用ゐ、又陸軍をも完全に運用し得たのである。
さうして、又西の方におきましてモウ一ッ土耳其といふ國があります、これは歐州戰争の時には獨逸に加擔して、さうして負けましてから殆ど歐州各國に分割される境遇になつたのであるが、彼等國民の努力奮鬪によりまして、之を打破して全く完全なる獨立を今日得たのである、即ちこの亞細亞の東において日本あり、又西においては土耳其あり、この二つの國は即ち亞細亞の一の防備であり、亞細亞の最も信頼すべき番兵である。
又亞細亞の中部においては阿富汗尼斯担といふ國があり、又ネパールといふ國がある、この二つの國は矢張り強い武力を持つて居る國である、これらの國民は今日の戰鬪的能力といふのは非常に強いのである、将来波斯にしましても、又暹羅にしましても、總て皆武力を養成し得る民族である、又中國では今日段々國民が覺醒されまして、この四億の民衆を以てして将来歐羅巴の壓迫に對して矢張り非常に大なる反抗力を持つのである。
●(4)我等の覺醒(12月6日)
さうしてこの亞細亞におきましては、我國に四億の人間が居り、また印度は三億萬の人民を有し、亞細亞の西においても亦一億萬の人民がある。南洋一帶において數千萬の人間がある。日本においても數千萬の人が居る。さうしてこの世界の四分の一の人種を抱擁して居る亞細亞は全部仁義道徳を以て聯合提携して、この歐州の亞細亞に對する壓迫に對抗するだけの武力、力といふのが必ず出來るのである。即ち我々は宜しく我々東洋の文化、この仁義道徳を中心とする文化を本とし、我亞細亞民族團結の基礎にし、またこの歐州に對して我々が學んで來た所の武力による文化を以て歐羅巴の壓迫に對抗するに使ふものである。
歐米の人民は僅四分の一も四億の民衆でありまして、我亞細亞民族は十二億萬あるのである。今日の事情は、即ち歐米各國は四億の人間を以て、我十二億萬の人民に對して壓迫をするのである。これは即ち正義人道に違反する行為である(拍手)
今日歐羅巴におきましても、また亜米利加におきましても、總て彼等は非常に專横極まる力を揮って居るけれども、彼等の國においては、米國におきましても、英國におきましても、あらゆる歐米の國の中には依然として小數の人が、この仁義道徳を重んじなくてはならぬということを知つて居る人があるのである。さうしてみるといふと即ち段々彼等の中にも東洋の文明、即ち仁義道徳を中心とする文明を信ずるやうに段々なり得るのである。
それで大亞細亞問題といふのはどういふ問題であるかといふと、即ち此壓迫される多數の亞細亞民族が全力を盡して、この横暴なる壓迫に――我々を壓迫する諸種の民族に抵抗しなければならぬといふ問題である。今日のこの西洋文明の下にある國々といふのは、單に小數の民族の力を以て、多數の亞細亞民族を壓迫するのみならず彼等の國家の力を以てして、彼等の自分の國内の人民に對しても依然として壓迫をするのである。故にこの亞細亞の我々の稱する大亞細亞問題といふのは即ち文化の問題でありまして、この仁義道徳の中心とする亞細亞文明の復興を圖りまして、この文明の力を以て彼等のこの覇道を中心とする文化に抵抗するのである
この大亞細亞問題といふのは我々のこの東洋文化の力を以て西洋の文化に抵抗するといふ、西洋文化に感化力を及ぼす問題である、米國のある學者の如き我々の亞細亞民族の覺醒といふのは、西洋文化に對する謀叛であるといふ、我々は確かに謀叛である、併しこの謀叛といふのは、單に覇道を中心とする文化に對する謀叛でありまして、我々は仁義道徳を中心とする文明に對して、我々のこの覺醒は即ち文化を扶植する、文化を復興する運動である。(拍手喝采)
(注)希臘=ギリシャ、羅馬=ローマ、波斯=ペルシャ、亞刺比亞=アラビア
拙稿「請孫文再来」ついて (宝田 時雄)
賢読6000に届こうとしている拙稿は、当初、備忘録のつもりで陰蔵していたものですが、「萬晩報」の伴主幹とTHINKJAPAN主宰の大塚寿昭氏のスタッフによって作成され見事に化粧を施されましたが、他人の目に供するほどの文体でもなく当初は゛恥ずかしい゛心地がしたものです。
そういえば手前味噌な例えで恐縮ですが、映画の場面でショーンコネリー扮する小説家が、「自分の為に書いた文章は,人に見てもらおうと書いたものより勝る」と、小説家志望の少年に説いています。
いつぞや夜半、再々読したという青年が来訪し「この文章は句点が多くていつまでたっても終わらない。どうしてですか?」と、正式な文学に触れていない小生を困らせたが、
「官制学歴も乏しく,学校では作文の時間に原稿用紙とにらめっこをしていたものだが、何時頃からか書き始めるとこんな風になっている。つねに明治の先輩に接していたからその感化かと思うが、しかし分かっている事は゛語り言葉゛ということだ。゛話し言葉゛ではなく゛語り゛という吾が言うことだ。いちど自らの言葉で「音読」してみたらいかがでずか」と応答した。
それは、泪を落としたり,肩をいからしたり、あるいは遠大な理想に空を見上げたりすることの繰り返しが、まさに師との語りだった。
すると青年は「請孫文再来」を日本語でなく流暢な北京語で私に聞かせてくれた。「私は正式な北京語でこの表題を発音するべきだ」と、熱烈に語り掛けてくれた。
あるときは名の有る会社の気骨のある会長が来訪し「全部読ませてもらいました」と、感想に添えて見識あるアジア観を披露してくれた。
いまだかって無学者の゛難しい゛面倒な文体で、しかも見るものにとって過去の遺物にも考えられる表題は、たとえ遠大な意図や推考が添えられていても、たんなる手前勝手な思い出話としての備忘に過ぎず、不特定多数の見解に晒すことの恥ずかしさはなかった。
後の挿入である『はじめに』と『あとがき』はそのような意味での言い訳のようにも見えるのもそのためです。
また孫文の命日を発信日とした伴さんのご苦労と同時に、即日,上海のサイトから連載依頼があり一挙にその効果の多面性を認識したものです。
しかし、まだまだ書き足りないものもあれば、時を忖度して秘すべきものもある。師から請けた膨大な資料と体験備忘録は小生の非力と相俟って、あるいは熱狂と偏見の鎮まりが許されないアジアの現状を観つつ何れ入稿の時を待っているようだ。
それは筍子の言葉の寸借だが、国家衰亡過程に現れる「行いは雑」「声楽は淫」といつた現象の中ではなかなか難しい事だということです。
『行いは雑』とは一時流行言葉になった゛ながら族゛のようにテレビを見ながら勉強するといつた鎮まりのない考察や、『声楽は淫』といって音楽も言葉の発声も抑揚のない雑音のようになったり、錯覚した欲望を喚起させ男女の区別さえつかなくなるような状態である。
あるいは「五寒」に表されている亡国の徴は、ときには架空現実や作為的な映像視覚にその拠をおき、言葉や文書というものを軽薇なものと捉える民情を的確に表している。
『敬重』(敬う対象がなく、その価値さえ枯渇してしまう)
父母,子弟に敬もなく,感動感激の意味が単に驚き恐れとして錯誤するため
わかり易い地位,名誉,学歴,財力、という何ら人格を代表しない附属性価値によって人物を観察するため統治バランスが崩れ調和が無くなる状態。
『内外』(国内や家庭が治まらないため視点や力が外部に向かってゆく)
価値観が錯交し国内でも家庭内でも調和が取れなくなると外来価値に委ねたり,外部の争い(侵略,紛争)を創作したりしながら外の世界に潤いの糧を求めたりするようになる。他国の高官との写真や褒賞、儀礼学位を国内向けに宣伝したりするのがその例である。
『政外』(政治のピントが外れる)
国の民情と地政学的にみる地域の特徴との関係に作為的乖離を生じさせるような一過性の合理や論拠によって支配されてしまうような状態で、自らを範とする「教」と,世を経(治め)民を済(救う)う経済の「養」のバランスが崩れることによって欲望の赴く奢の「養」が優先され、「教」までもがその手段となってしまう。学歴,地位,財力とが一体の志向となり相(教,養一体となった先見ある宰相)の存在さえも枯渇してしまう。
『謀弛』(謀が弛(ゆる)む。秘すべき鎮まりが騒じょうとした世情になる)
「はかりごとがゆるむ」情報化社会なのか処理能力の枯渇なのかは峻別すべきところだが、人の動向に興味を持ち垣間見ることで安堵する軽薄な民情もさることながら、緊張感が欠けた漏洩政治もその類である。
『女レイ(ガンダレに萬)』(女が烈しくなる)
母のつよさとは異なり女性の劣性が際立つことである。男のひ弱さもその因ではあるが、男女の別といった弁えが無くなり、その不調和は国家の基盤さえ揺るがすといっている。
「五寒」はこのような社会の゛際立ち゛に警鐘を与えてくれるが、はたして「どうするか」ということについては百家争鳴になり結論が出ないことも示唆している。
はたして世界を駆け巡る情報や、たかだか人間の考える一過性の論拠や、はたまた科学的根拠といった臭九老の戯言に委ねることは、せいぜい歴史の一片にしかなりえまい。
せめて、高麗の種のように、歴史への感謝の稲穂となって広幡したいものだ。
小生は「請孫文再来」を自身の秤として回顧しつつ、長(おさ)のあるべき存在を確認し、古今の栄枯盛衰にその思考の糧を求めなければ、恥ずべき拙稿に登場願った先人に応えるすべはないと考える。
賢読された方々とすがすがしくも爽やかな歴史を刻むためにも。