執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

3月上旬、95歳の男と銀座で出会った。遠山正瑛さん。きんさん・ぎんさんは茶目っ気で100歳を超えても人気者だったが、この男の場合はいささか違う。内蒙古の砂漠地帯に木を植え続けることを晩年の仕事と課している。金儲けや野心からではない。「蒙古へ行くと祖国を感じる」のだという。

鳥取大学元教授の遠山さんの名前は以前から知っていた。映像メディアにいる友人が年末に目を輝かせてこんな話をしていたことからどうしても遠山さんに会いたくなった。

「こんどモンゴルに行くんだ。日本人がずっと木を植え続けているのは知っているでしょ。その地に森が生まれて、動物たちがよみがえり、なんと湖までできたって話を取材しにいくんだ」

「それってまるでジャン・ジオノの『木を植えた人』じゃない」

「そうなんだ。人間の力ってすごいと思わないかい」

中国の黄河は1972年からほぼ毎年、下流の流れが途切れる「断流」現象が起きている。緑を失った上中流の土地の保水能力が失われたのが主な原因だとされる。大規模な地球の環境変化がもたらした結果でもあるが、一方で住民による森林伐採もまた黄河の上中流の砂漠化をもたらしている。

飢えを克服した中国の次の大きな課題は黄河流域の砂漠化を食い止め、緑化することである。遠山さんはそんな黄河上流に住み着き、木を植え続けている。

遠山さんが住むのは内蒙古自治区の恩格貝という町。黄河が内蒙古を流れているとするのは違和感があるが、恩格貝は黄河が北に向かって湾曲するその最北端にある。北京からだとフホホトまで汽車か飛行機で飛び、さらに数十キロ行ったところにある。

恩格貝での植林事業は王明海氏との出会いから始まった。文化大革命でずたずたにされた心を癒すために恩格貝の緑化を始めていた。二人をつないだのは日本人を母親に持つ谷曉蘭さんだった。パオトウの緑化研究所で日本文献の整理に当たっていた。あるとき蘭州の砂漠研究所で緑化事業に協力していた遠山さんの招聘を思いついた。

遠山さんは戦前、食料増産という国家プロジェクトで海岸砂丘の開発に従事。以来、砂漠との付き合いが始まった。最初の訪中は田中角栄による日中国交樹立がきっかけであるという。遠山さんが実感したのは「中国に砂漠研究所はあるが、砂漠開発はない」ということだった。江沢民主席も「農学進んで農民衰えたり」と嘆いたそうだ。

「それなら俺が」ということで、まず蘭州北部の砂漠地帯にあるサボトウというところにブドウ園をつくった。資金は立正佼成会が7000万円寄贈した。遠山さんがつくった5ヘクタールのブドウ園はいまでは1000ヘクタールまで広がっているそうだ。

恩格貝の緑化では多くの日本人が協力している。成長の早いポプラを1本1本手植えする「緑の協力隊」を日本で隊員を募集。1週間から10日のツアーで木を植えるだけのためにすでに延べ5000人が恩格貝の地を訪れている。やってきた日本人たちはそれぞれ「アミダの森」「犬塚の森」など思い思いに名付けて自らの訪問の証を記している。宗教団体や労組の名前も少なくない。

植林されたポプラは280万本を超えるはずだが、遠山さんは一切植林の規模を明かさない。

「ヘクタール数が分からないのなら、何キロ四方だとか森林の広がりを示す数字はありませんか」

「さぁ。砂漠に森が点在している状況ですから」

いつの間にか遠山さんの目は遠くモンゴルに地に果てていた。恩格貝の植林事業はマスコミを通じて中国全土に知れ渡り、多くの中国人が関心を寄せるようになった。三年前に遠山さんの銅像が恩格貝の地に建った。故周恩来首相の第一秘書だった宋平氏がどうしてもといって建てたものだそうだ。この銅像はとかくぎくしゃくしがちな日中関係にとって貴重な存在である。

緑の協力隊に関心のある方は「日本沙漠緑化実践協会」(03-3248-0389)

(注)8日に一部内容を訂正しました。

(1)植林されたポプラの本数「300万本」→「280万本」

(2)恩格貝の距離「数百キロ」→「数十キロ」

(3)「アイヌの森」→「アミダの森」