執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

Good job! We Are proud of you, Prime Minister!

小泉純一郎首相がまた日本の常識を覆し、ハンセン病に関する熊本地裁裁判の控訴断念を決断した。共同通信の編集局でスピーカーから流れる「控訴断念」の速報を聞きながら、久々に体内の血が沸き立つ思いがした。ふつうの言葉で語りかける政治をこの国に取り戻した小泉首相が、今度は冷徹だったこの国の政治に暖かい血流を取り戻した瞬間だった。

信州南相木村の色平医師が2週間前に送ってくれたコラムを読みながら、読者のみなさんと歴史的なこの1日の残りを静かに過ごしたい。

ハンセン病-予防法は廃止すれども

骨になっても まあだだよ……。

回復した人でさえ、病名を明かせない病気――それがハンセン病だ。

15年前、京都で学生だったころ、医学部の友人たちと瀬戸内海の島を訪れた。高松市から小さな船で大島に渡り、そこの療養所、青松(せいしょう)園の「元」患者さん方から、さまざまな若いころのお話を伺った。かつて「らい病」とよばれ、(事実と異って)死に至る不治の病とされた。手足や顔に変形が目立つ症状から、患者は「かったい」「くされ」などと蔑称された。

1931年制定の「らい予防法」によって、全患者が隔離対象とされ、36年には地域から病者を一掃する「無らい県運動」が広がって、警察力まで使って発症者全員が療養所に強制収容されたという。

「天刑病」「業(ごう)病」とまでいわれた元凶のひとつは、差別意識を助長する隔離法、つまり当時の国家政策にあった。敗戦により、全国の療養所には患者自治会が再建された。

74歳の「語り部」平沢保治(やすじ)さんにお会いした。国立ハンセン病療養所・多摩全生(ぜんしょう)園の入所者自治会長だ。13歳の時発病を宣告され、診察した東大病院の医師に「軽症だから一年もすれば帰れる」とだまされて全生園に送り込まれた。

戦後、薬物療法によって病気が完治するようになっても、世間からの偏見は続いた。「座っていた椅子を消毒されたり、全生園の人間だとわかると、タクシーを下ろされたり……」「苦しみの中にある幸せを自分自身で感じられれば、人生に希望を持つことができる」「歴史は歴史として正しく伝えなければ、その教訓は後世に生かされない」「公教育の中で障害者と交流できる仕組みをつくれば、そこから信頼関係を育てていくことができる」

……「人生に絶望はない」と語る平沢さんの信念である。

94年、大谷藤郎氏(現高松宮記念ハンセン病資料館館長)が「医学的、人権的に強制隔離は許されない。らい予防法の隔離条項も削除する必要がある」と日本らい学会で発言した。この発言がきっかけとなって、日本でもやっと96年4月1日にらい予防法は廃止された。ハンセン病は完治するようになり、らい予防法もなくなった。

しかし血のつながりはあっても、肉親はいない。「終わり」があっても、帰るところがない。昔は「火葬場の煙になって出るよりほか、ここから外に出る方法はない」といわれた強制隔離政策だった。

今はそうではないはずなのだが、死んでもまだふるさとに帰れない。

その思いを、ある入所者が川柳によんでいる。

「もういいかい」

もういいかい?

骨になっても

まあだだよ

いわれ無き偏見に対し、患者自治会は闘い続けた。しかし、人間の業を見せつけられ、奪われてしまったものはいまだ取り戻せてはいない。

現在、全国15カ所の療養所には「元」患者さん約4500人が入所、入所者の平均年齢は74歳になろうとしている。偏見は無知の産物であり、無知は情報隠匿の結末であるという。

いつの時代にあっても、改めて再認識させられる。医療者が「最前線で、患者とともにあること」の難しさを

色平さんにメールは E-mail : DZR06160@nifty.ne.jp