執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

数年前、和歌山県に住む読者から手紙をもらった。阪和銀行倒産の折り、借金の返済を求められた中小企業経営者からだった。
近所付き合いから不必要な借金を要請された上、「金利さえ支払ってくれればいい」「残高はなるべく減らさないでほしい」といった銀行側の求めを受け入れた結果、返済が30年という商業上信じられない借り入れ契約となった。

不良債権化し、破たんの引き金となった大口の融資は国の資金で穴埋めされることになったのに、零細のわれわれへの融資には厳しい取り立てがあるのは合点がいかないというのだ。それはそうだろう。30年返済のつもりでいた資金をいますぐ全額返せといわれては経営は成り立たない。

●永遠の借金という迷路

銀行が企業に「金を借りてくれ」と頼み込んだ時代はつい最近まであった。銀行は集めすぎた預金を有効に運用する手段を持っていなかったという点では今も昔も変わりはない。だから最近まで銀行は行員にノルマを課して「融資額」を増やすことを生業とした。

元金はなるべく減らしてほしくないという銀行側の倒錯した営業姿勢がいつ始まったか知らない。たぶん国が産業界救済の名目で巨額の長期資金を市場に垂れ流し始めたオイルショック以降のことだと思う。そのころから政府のやり方をならうのが民間の癖となった。当然ながら構造改善の名の下に国際競争力を失った産業のカルテル化も急速に進んだ。

おかげで日本の企業社会にとっての借金は「金利を負担するだけの資金調達手段」と化した。信じられないような倒錯した時代が続いた結果、この国は「永遠の借金という迷路」に迷い込むこととなった。

背景には、銀行に預金が集まりすぎるという笑えない現実があった。銀行の本来業務は金貸しである。その証拠に多くの銀行の100年前の姿はどこも高利貸しだった。金貸し業に「預金」などという概念はなかったから、少ない元手を回転させる必要があった。元金の回収なくして高利貸しの経営は成り立たない。

だから金貸しが銀行となってからは、金を必要とする人々に金を貸すために金が余っている人々から預金を集めた。しかしこの国の金貸しの仕事は長らく主客が転倒したままである。貸出先がないのに預金ばかりが集まる。最近では有り余る預金の貸出先が見つからず政府への貸し出し(国債購入)でようやく利幅の薄いさやを稼ぎ出しているのだ。

●「自己資本」的感覚だった企業の借金

銀行に借金の残高を維持したいという考えがあるかぎり、それは借り手にとっても都合のいい制度だった。元金返済の義務のない借金は金利さえ支払っていればいいということ。見かけ上は、株式発行による資金調達で配当金を支払うのと原理的にほとんど変わらない仕組みである。

だから大企業も中小企業も借りられるだけお金を借りて設備投資につぎ込んだ。それでも少し前までの銀行は担保価値の七割ぐらいまでしか貸し出しを行わなかった。担保価値が減らないかぎり、担保に保証された借金は貸し手にとって何の不安もない企業活動だったはずだ。

それがバブル期に入ると、銀行の貸出が運転資金や設備投資以外の「投機」につぎ込まれ、担保となった不動産や株式の市況が暴落してバブル崩壊の危機を迎えた。マスコミは銀行の担保主義を批判したが、担保主義が悪いのではない。問題は担保能力を上回った貸付をしたこととその後に「追い貸し」をしたことだった。いわゆる「無担保」融資である。また金利すら支払えなくなった企業に「追い貸し」して金利が支払われたかのように装ったことも問題を大きくした。

企業のバランスシートで「借金の元本」は当然、負債の部に盛り込まれるのだが、つい最近までこの国の経営感覚では「自己資本」的存在でしかなかった。これまでの銀行経営を擁護するわけではないが、そう考えなければ日本の企業が戦後一貫して借金を増やし続けたという企業行動が理解ができない。

日本型資本主義の特徴とされた「間接金融」はこの「元金を返済しない」という貸し手借り手の間の暗黙の合意によって初めて成り立つ慣行であったともいえる。この国の悲劇は運用能力のない人々に巨額の資金が集めたことだった。結果的にお金を必要としていない人々に無理矢理お金を貸すことで水膨れした経済の体質に陥った。(つづく)