38年目の日本の高速道路(2)–鏡のような路面
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
●一度は日本で導入された国際入札
名神高速道路の建設に当たって、米国や西ドイツ(当時)などから最新技術も導入された。国際的に当時の日本の建設技術に対する不安もあっても仕方のない時期である。とにかく1950年代当時の東京ー大阪間の国道1号はほとんどが砂利道で、土煙を上げながらの走行が普通だったから、時速100キロでカーブを曲がるような高速道路の設計技術の蓄積をもっているはずもなかった。
道路の設計では西ドイツのドルシュ博士、舗装などでは米国のソンデレガー氏が中心となって協力した。ドルシュ博士はドイツのアウトバーン建設に携わった技術者の一人でもあった。当時の日本では、高速道路などは単なる土木技術の延長で建設できると考えていたが、ドルシュ博士などが持ち込んだ線形技術などに日本の技術陣は驚愕した。明治時代の黎明期と同様、高速道路の建設もまた、海外からの技術習得がその後の日本の基礎となったのである。
また、世銀からの融資が決まると、発注業者の国際入札も決まった。いわゆる透明性の高い入札制度の導入を求められたわけだ。名神と東名の建設工事は当時としては巨額のプロジェクトであったため、世界的関心を集めたが、結局、外国勢が受注したのは東名の1区間だけに終わった。しかも不思議なことにこの業者も結局、工事を完成させないうちに撤退し、途中で日本の業者に工事の権利を譲渡した。
日本の公共事業に外国勢が参入するのは90年代に入ってからである。89年からの日米構造協議によって日本市場の閉鎖性が指摘され、関西空港建設などで一部、風穴が空いた。しかし、外国勢といえども透明性の高い入札で勝ち取ったというより、政治の力で受注し、JV(ジョイントベンチャー)の分け前をもらっているにすぎない。残念ながら日本の高騰した公共事業費を押し下げるまでにはいたっていない。
当時、外国勢の進出を阻んでしまった詳しい背景はうかがい知れないが、せっかく透明性の高い入札制度を設けながら、有効に運用できなかった日本の建設行政はその後、指名業者間の談合や建設費の高騰という高いコストを支払わされることになる。
●なんで最低速度が必要なのか
それでも名神高速の栗東ー尼崎の開通は日本のモータリゼションにとってひとつの事件だった。まず馴染みのない「最低速度」という概念が持ち込まれた。米国の連邦道路局の「遅い車も事故の確率が高い。一番事故率の低い速度は昼間で90-115キロ。夜間は75-110キロ」という報告が波紋を呼んだ。
名神の多くの部分は最高速度120キロで設計されていたため、最高速度の100キロはすんなり決まったが、「最低速度50キロ」という道路交通法の規則は決定までに「なぜ最低速度が必要なのか」など多くの曲折があった。当時は専門家の間でもスピードに関する認識はその程度のものだった。
また、そもそも国産自動車が本当に時速100キロものスピードで長時間走れるかという、自動車の耐久性も疑問視された。1961年には完成した京都市郊外の一部区間で130日にもわたって国産自動車による高速走行試験が繰り返されたというから笑うに笑えない。
日本の高速道路の設計者は先見性がないとの批判が絶えない。いまでこそ名神高速道路の京都-大阪間の渋滞を解消するために拡幅工事が行われ、天王山付近は片道2車線から4車線になっている。しかし筆者もまた20数年前、名神が2車線しかなかったことを公団をなじったことがある。
そのとき、こんなやりとりもあった。
「アメリカの高速道路では片道4車線や5車線が常識なのになんで、名神は2車線で設計されたんですか」
「昭和30年代に日本に本格的なモータリゼーションがやってくるなんて想像できた人がいたら、その人の顔を拝みたいものですよ」
「当時の日本でそんなもんだったんですか」
「そんなもんって、ふつうの国道は郊外に出れば砂利道がふつうでしょ。それから3輪トラックなんていう不安定な車がそこら中走っていたんだから」
閉鎖された道路での事故の通報体制や高速警察隊によるパトロールなど関係者には初めて体験する多くの課題の解決が求められた。
とにかく38年前、砂利道万能だった関西に突如として鏡のような高速道路が出現した。いまの自動車では考えられないオーバーヒートや擦り切れタイヤによるパンクなど車両の故障が事故の大半を占め、インターチェンジ出口からの逆行なども頻発したという。(続)