覚醒もたらすアリアラトネ氏の幸福論
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
正月にスリランカのアリアラトネ氏のことを思い出した。古くからスリランカにある農村開発哲学を実践するサルボダヤ・シュラマダーナ運動を主宰し、アジアのノーベル賞とも呼べるマグサイサイ賞を授賞した人物である。1970年代後半に来日した時、京都と奈良を案内する役目を授かった。
くたびれたポロシャツと口の開きかけた靴で日欧米にサルボタヤの真髄を説いて回る旅の途中だった。出会った最初の言葉が「このブロークン・シューズでホワイトハウスにも行ってきた」。陽気でおしゃべり好きなアリアラトネ氏は外見といった世俗的なことには関心がない。新幹線の1等車でも一流のホテルでも堂々としていた。
当時すでにスリランカの1500の村(1990年では約8000)でこの覚醒運動の指導者を育て、各層の農民が自立できるよう支援活動を行っていた。
アリアラトネ氏は実践者にありがちな精神主義一辺倒には傾斜しない。西欧と東洋の対立も強調しない。機械文明と精神文明が相互に長所を取り入れればいいのだということを一貫して主張してきた。70年代当時の話ではあるが「いま西洋は自信を失っている。ほんの少し東洋の思想を紹介してあげればいい。その中から必ず何かを見出すだろう」と話していた。
新幹線の車窓から「日本は農業と工業が調和している」と言った。筆者はアリアラトネ氏の中にあった日本への期待を感じていた。シンハリ族とタミール族の長い対立だけがスリランカの発展を阻害しているわけではない。この国では差別、貧困といった途上国特有の課題を多く抱えている。それでもどこか底抜けに明るいアリアラトネ氏の生き方がどうしても忘れられないのだ。
アリアラトナ氏が1978年「ワールド・へルス」誌に寄稿した論文「労働の分ち合い」を著書「東洋の呼び声」(1990、はる書房)からアリアラトネ氏の「幸福論」を引用してみたい。
●食べ物は4番目の基本的二-ズ
「幸せですか」と私は、その農夫に聞いた。
「もちろんだとも。でも、なぜそんな質問をするんだ」。私は、それには答えず、しばらく黙っていた。本当にどうしてそんな質問をしたのだろう。
農夫の名前は、カウワ。彼は、ウェダマハッタヤとしても知られた人物だ。ウェダマハッタヤとは、シンハリ語で民間医療の治療師のことだ。カウワは、他の農民と同じように、農業で生計を立てている。3工-カーの水田と2工-カーの畑が彼の土地だ。そして、彼は、村民の軽い病気の治療も引き受けている。病気の治療は、彼の家が伝統的に数世代にわたって行ってきた奉仕活動である。
彼の住む村は、クルケテイヤーワと言い、スリランカにある2万3000の村の一つだ。そこに行くには、首都コロンボから幹線道路を車で4時間。さらにジャングルのなかの牛車道をジープで一時間半、ヘとへとの旅が必要である。
カウワは、水牛車での一日がかりの旅から帰ったところだった。私が着いたとき、彼は丁度、牛を解き、シャツを脱いだところで、上半身裸で、にっこりとほほえみながら私を見つめていた。
「ほかの村民はどうですか。幸せですか」。もう一度質問してみた。
「私は答える立場にはないが、個人的な意見だが、この村の私と同世代の人々の大半は幸せだな。しかし、もっと若い世代はそうではないようだ」
「私は、いま78歳だが、若い連中の6人分くらいはいまでも働いているよ」
「どうして若い世代が幸せでないのですか」
「話せば長くなる。少し待ってくれないか。楽にして、待っていてくれ」
カウフは、古いけれど頑丈な木枝としっくいが支えた草ぶき屋根の家に入り、腰布を巻いて出てきた。そしてココナッツの木に繋がれている2頭の牛に向かって元気よく歩いて行き、縄をほどき、裏庭の水置き場に連れて行き、水をかけ始めた。かれは自分の子どものように
その牛たちを楽しそうに洗う。実際「プター(息子)よ」と呼びかけながら。そのあと、もう一度縄をかけ、餌を与え、そして、井戸に戻り、今度は自分の身体を洗ったあと、牛の乳をしぼり、そしてやっと私のところに戻ってきた。
外はすでに夕闇だった。
彼は、私がスリランカのサルボダヤ運動の人間だということを知っている。サルボダヤは、人々の自立を促進するために、約1500の村で活動している草の根の団体だ。サルボダヤはすべての人の目覚め、シュラマダーナは労働の分かち合いをそれぞれ意味する言葉である。
クルケテイヤーワ村でも、この運動が始まったばかりで、カウワは、私たちをそこに連れてくるために尽力した人物だ。その晩は、彼の客人ということで一泊していくことになっていた。
ベランダに腰を下ろし、その老人は語り始めた。
「幸福とは、心の状態のことだ。決して金で買えるものではない。生きることの意味を正確に理解することで、その心の状態を進化させることしか私たちにはできないのだよ。いまの世代は、生きるとは何かの理解を急速に失いつつある。だれもかれも、最小限働いて、最大の給料がもらえるような仕事を探し求めている。そして、世界中の金品を集めても買えないような、果てしない欲望にとらわれているのだ」
「あなたは、土着のお医者さんです。健康が、私たちにとって最も大切な基本的二-ズだと思いませんか」
「当然のことだ。健康こそが、我々の努力のすべてだ。しかし、大事なことは、健康をもたらすには、その他の様々な問題を解決しなければならないということだ。そして、我々は、個人、家族、村さらに国家、世界をも含めて、すべてを一つの体系として見なければならない。そうしたあと、自分のまわりを見て、いま持っているものを活用して、自己開発を始めなければならない。そのようにしてやっと、生きていることの健康な状態に到達できるのだよ」
「いま、生きるための基本的な二-ズを言われましたね。あなたにとって、この村の基本的二-ズは何だと思いますか」
私の問いには答えず、カウワは立ち上がり、そして言った。「私にとっての四番目の基本的二-ズは食べ物だよ。さあ食事にしよう」
カウワについて部屋に入り、私は、いままで食べたなかで最もおいしい食事を味わった。
多分、塩以外はすべて村でとれたものだろう。私は栄養学の知識はないが、それでもバランスのとれた食事であることは理解できた。食事のあと、私たちは、高台に建てられたお寺まで歩いて行った。そこには、多くの男女、子どもが「家族集会」のために集まっていた。人々が集まるのを待ちながら、私は、カウワに質問した。
「どうして、食べ物が一番ではなく、四番目の基本的二-ズだと思うのですか」
彼によると、近代の専門用語でいう「健全な心理的、物的かつ社会的なインフラストラクチャー」が、人間にとっての一番目の二-ズだと言うのだ。つまり「物心両面の清潔で美しい環境」が一番目の二-ズだと彼は強調した。
「それでは、二番目は何ですか」
「清潔な水が十分に供給されること。まず人々が使うため、そして農業のために」
「三番目は」
「三番目の基本的二-ズは、衣服だ。腹のすき具合いを考える前に、私たちは、自分の恥かしい部分を隠そうとするものだ。恥を知らない人間は、文明化されていない人間だよ」
「その次に食べ物がくるのですね。他に何がありますか」
「順位をつけるなら、家屋、健康管理、道路、通信、燃料、教育そして精神的および文化的二-ズの順になるかな」