日本には来れないがパリをかっ歩する中国人
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
パリツアーのアテンドから帰った旅行業の友人が驚いていた。
「ムーランリュージュへ行ったら、日本人はわれわれ20人だけで、あとは中国からの観光客ばかりなんだ。ブランド店にいっても中国人ばかりが目立って、買い漁っているんだ」
日本人の団体がパリの観光名所をかっ歩していた時代は終わってその次の韓国も存在感が薄い。もう中国人の時代になったというのだ。それで話が別の方に向かった。
「観光ビザで入国して逃げちゃう。なんてことは心配ないのかな。日本の場合、中国人向けの観光ビザ発給は人数枠が厳しい上に、誓約書まで書かすっていうじゃん」
「フランスって、そういうところがけっこうおおらかなんじゃないのかな。日本人は本当に心配性なんだよ。というか信用しない」
「うん、そうだね」
「景気が悪いんだから、日本も外国人にもっと来てもらう努力をすべきなんだ。日本で働くことを目的に観光ビザを取得する人もいるだろうけど、外務省とか入管は、上海とか北京でお金持ち層が相当増えていることが分かっていないんだ。中国人イコール労働目的と考える時代は終わったと思うよ」
「パリでの中国人観光客の買い物を見ているとそう思うよ。1960年代に月給が5万円ぐらいだったころ、俺も25万円のヨーロッパツアーに行ったもな。お金貯めてさ。そんな時代を思い出しちゃったよ」
「そう、外国人に来てもらう努力といえば、10年以上前にキャセイ航空が香港-札幌の定期便を飛ばしたんだ。目的はスキー。当時、東南アジアの人々にとって雪といえば北海道というイメージがあった。問題は札幌側の受け入れ体制だったんだ。北海道のスキー場がアジア人だらけになったら日本人が来なくなるって言って観光協会がさっぱり動かなかった。キャセイの人がせっかく定期便を飛ばしたのにってこぼしていたよ」
「そういう話って初めて聞いたよ。いまや日本人も来なくなって、二泊三日で3万円台のツアーをつくっても来ない。その時、ちゃんと誘致をしておけばよかったのに」
「もう。遅いよ。香港人はカナデェアン・ロッキーまで飛んじゃうんだから」
「ヨーロッパもアメリカもその点、お客はお客。内心嫌だと思ってもちゃんとそろばんをはじくんだ。ところで年間にフランスを訪れる外国人観光客は何人だか知っているかい」
「いいや。日本は400万人だとかだろう」
「フランスは4000万人なんだ。もちろん国境を接しているという要素もあるけど。すごい数だと思わないかい。国の人口に匹敵する人が遊びにやってくるんだ」
「ほう、それはずごい。日本だと1億人ってことか。一人10万円落としてくれたら10兆円……。景気対策なんてぶっとぶ金額だ」
「まあそれだけの人を収容する宿泊施設があるかどうか知らないけれど、国境を開放するということはそれだけインパクトが大きいってことさ。旅行業をやっているとそれがよく分かるんだ」
「警察だとか入管は外国人が入ってくるマイナス面ばかりを強調して、マスコミもそれに乗ってしまって、外国人=悪というイメージを知らず知らずに作り出していると言えないだろうか」
「おっしゃる通り。ボーダーレスだとか言っておきながら、日本人が外国へ行くことばかりが国際化だと信じてきたんだ。日本人が外国に出て行くということは同じ数の外国人も受け入れていくという自覚が欠如しているんだよ、この国は」
【読者の声】
フランスと中国ということで思い出すことがあります。
僕がフランスに留学したのは1981年4月。初めにブザンソンという小都市にいて、7月から2年近くをグルノーブル(札幌の前の冬季オリンピックがあった所、キリーが3冠王を取った、何て話をしても通じる人が少なくなってしまった)ですごしましたが、初年度は僕が知っているだけでも100人近くの日本人留学生がいて一大勢力でした。
他には中東やアフリカの人が多いのは歴史的な背景があるとして、もう1カ国突出して多かったのがベネズエラ。石油ショックの後、自国内であまり石油の採れないフランスは戦略的に産油国からの留学生を受け入れてきていた。我々は彼らを石油奨学生(PetroBourciersペトロ・ブルシエ)と呼んでいた。
2年目(82年)になって、景気後退から日本人留学生の数が半減する中(特に企業派遣の人が減り、冬の時代と言われた商社の人など、2年の予定で来ていたのに1年に短縮されて帰ったりしていた。入省して数年の、我々を「民間の方は...」なんてすぐ言う外務省からの留学生は減らなかったけれど)、急増したのが韓国と中国。
特に中国はまとめて送られてきたという感じで(事実そうだったんだろう)、キャンパスの雰囲気が変わったような気がした。まだその頃は一目で服装から大陸中国から来た人と台湾から来た人は区別が出来ました。授業でも積極的で、授業中に発言を求められると、言われもしないのに黒板の前まで出てきて堂々と発表するという風でした。
中国が国際社会に復帰した時、西側で初めに国交を回復したのはフランスですし、昔からフランスと中国の外交は日本など足元にも及ばないように巧みです。(Koseki N.Y.)