執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

いま、賀川豊彦の『死線を越えて』という小説を読んでいる。大正9年に改造社から初版が刊行されてミリオンセラーになり、いまのお金にして10億円ほどの印税を手にしたとされる。賀川豊彦は、神戸の葺合区新川の貧民窟に住み込み、キリスト教伝道をしながらこの作品を書き、手にした印税でさらに貧民救済にのめり込む。

賀川豊彦はキリスト教伝道者であるとともに、戦前は近代労働運動の先駆けを務め、コープこうべを始め、日本での生協運動の生みの親でもあった。戦後は世界連邦論を推し進めるなどいまでいえば、政治・経済のトータルプランナーだった。

最近、そんな賀川豊彦という人を芋づる式に学んでいる。先週は賀川豊彦記念講座委員会編『賀川豊彦から見た現代』(教文社)を読み、その前の週は賀川豊彦の長男である純基氏を世田谷区上北沢の松沢教会に訪ねた。僕の中で賀川豊彦という存在がどんどん膨らんでいく。

純基氏は80歳になる品のいい老紳士だった。「僕は賀川豊彦がずっと重荷になっていたんですが、最近、その偉さが分かってきた」というようなことを言った。

3月に賀川が少年時代を過ごした徳島県鳴門市に賀川豊彦記念館ができて、徳島の先生たちが松沢教会内にある賀川豊彦記念館を訪ねてくれるようになったのだそうだ。「子どもたちに賀川豊彦のことを聞かれて勉強不足を恥じ入って訪ねてくる」というのだ。ただ「多くの人は賀川豊彦という人物の断面だけをみて、全人格的にみていない」との不満も漏らした。

それは賀川豊彦が70年の人生で築き上げた経綸に対する理解不足ではないかと思う。ヨーロッパの人たちが幾度かこの人物をノーベル平和賞の候補としたのは単なる平和主義者としての賀川豊彦ではなく、平和を実現するためにどういう政治体制が必要なのか、どのような経済改革をしなければならいのか終生考え続けた、その功績に対する評価だったはずだ。

純基氏が「シューマンというフランス人を知っていますか」といいながら、欧州連合(EU)と賀川豊彦の話をし始めた。偶然、前の夜、賀川豊彦が雑誌『国際平和』に書いていた「シューマン・プラン」の話を読んでいたから理解が進んだ。シューマンは1951年当時のフランスの外相で、フランスが占領していたルール地方の鉄鋼、石炭産業をドイツに返還して国際機関に「統治」させるよう提案した。このヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約が後のECに、そして現在のEUに発展する。

「1978年にECのコロンボ議長(イタリア外相)が日本にやってきた時、賀川豊彦が提唱したBrotherhoodEconomicsという概念がECの設立理念の一つとなったというんですよ。これは当時のEC日本代表部が発行した広報資料にも掲載されています」

驚くも何もない。賀川豊彦がEUの理念と関係していたとは。このBrotherhood Economicsは1935年アメリカのロチェスター大学からラウシェンブッシュ記念講座に講演するよう要請され、アメリカに渡る船中で構想を練った「キリスト教兄弟愛と経済構造」という講演で初めて明らかにしたもので、翌1936年、スイスのジュネーブで行われたカルバン生誕400年祭でのサン・ピエール教会とジュネーブ大学でも同じ内容の講演をした。

「キリスト教兄弟愛と経済構造」はまず資本主義社会の悲哀について述べ、唯物経済学つまり社会主義についてもその暴力性をもって「無能」と否定し、イギリスのロッチデールで始まった協同組合を中心とした経済システムの普及の必要性を説いたのだった。

その400年前、ジュネーブのカルバンこそが、当時、台頭していた商工業者たちにそれまでのキリスト教社会が否定していた「利益追求」を容認し、キリスト教世界にRefomationをもたらした存在だったが、カルバンの容認した「利益追求」が資本主義を培い、極度の貧富の差を生み出し、その反動としての社会主義が生まれた。賀川豊彦が唱えたBrotherhoodEconomicsこそは資本主義と社会主義を止揚する新たな概念として西洋社会に映ったのだと思う。

この講演内容はただちにフランス語訳されて話題となり、わずか3年の間にヨーロッパ、アメリカを中心に中国を含む27カ国で出版された。スペイン語訳には当時のローマ教皇ピウスⅩⅠ世の序文が付記された。

さらに純基氏がいうには「アメリカのワシントンDCにワシントン・カテドラルという英国教会の教会があるんですが、そこに日本人としてはただ一人聖人として塑像が刻まれているのです」。1941年4月、賀川豊彦は日米開戦を阻止するため、単身渡米してワシントンで米側と話し合いをしているのだ。

そんな日本人がかつていたことをわれわれはもっともっと誇りに思っていい。