キャピタルヒルで見出した中江丑吉の魅力
執筆者:中野 有【ジョージワシントン大学客員研究員】
坂本龍馬は、あまり文献を残さなかったので、龍馬を尊敬し、第二の龍馬を目指そうとした中江兆民の全集から、「龍馬の思想」を学ぼうとした。そして深遠なる古書の魅力にとりつかれた。思想家、ジャーナリスト、政治家として自由偏在に行動した兆民の思想が、精神のバックボーンになった。兆民を通じ、幸徳秋水、徳富蘇峰、大川周明等、そして当時のアジア情勢を鮮明にするため満鉄の経済調査部に興味を持った。ジョンズホプキンズ大学では、兆民の「三酔人経綸問答」が参考書になっている。
キャピタルヒルの後ろにある議会図書館には満鉄関連の文献が充実している。満鉄の嘱託を経て戦前の北京で30年生活した兆民の息子、知る人ぞ知る中江丑吉(うしきち)の本を見つけた。「中国古代政治思想」と「中江丑吉の人間像」である。それぞれ岩波書店(1950)と風媒社(1970)から出版されているので日本でも手に入る本であるが、ワシントンで丑吉の本に出会い、この1週間は議会図書館の住人となってしまった。
丑吉は、兆民と交流のあった西園寺公望等の援助を受け、一生のほとんどを無職で通し、アジアの真ん中、北京に身をおき中国の伝説時代から歴史時代にかけての中国の古代政治思想と人類の全生活史の研究という雄大な作業をこつこつとこなしたのである。そして、歴史や物事の一般的な原則や自然の理を悟り、戦争へと進む日々の時勢の作用の観測を行った。現状の立場、将来への見透し、人物の性格を分析し、満州事変勃発とともにいち早くその本質と発展性を指摘し、日独敗戦の必至を説いたのである。太平洋戦争の運命を見抜いた丑吉の手法は、古代中国思想である総合的萬有学と政治的根拠をなす宇宙観を基本としたものである。
アカデミズムを嫌った丑吉の思想は、学説や体系的観念により矮小化されている昨今の学問と対称的である。現在の北朝鮮問題や北東アジアの視点は、いかに表層的な短見で語られているか。丑吉が示唆する歴史の一般的法則と、自然の理法が必要なのである。紛争の解決には西洋的な一神教でなく、多神教的な宇宙を貫くアニミズムの思想が必要なのだ。と丑吉のおかげで確信を持つことができた。
この丑吉の総合的萬有学から来る思想こそ、世界に発信すべきである。古都北京の格好な点景人物であった丑吉に日本から多くの人物が集まったという。北京の松下村塾のようだったのだろう。
ノートに書き留めた丑吉の思想を断片的であるがここに記したい。
1.広域圏について
世界恐慌からの脱出の過程において世界経済には「経済ブロック」形成の動きが濃化し、英帝国経済ブロック、北米経済ブロック等に対抗して、日本も日満支経済ブロックの強化をしきりに推進しつつ日本のエビコーエンたちは、この言葉をもてはやした。「東亜共栄圏」というスローガンがその仕上がりであったことはいうまでもない。
これに対する中江さんの批判は、一刀両断的な厳しいものがあった。
「広域圏だのアウタイキー(自給自足圏)だのとの考えは、資本主義経済の指向するところと逆行しているな。資本主義というものは、その本質上、世界的な規模で経済交流する方向をとるもので、世界がいくつかの孤立した経済圏に分かれるなど、資本主義の発展にとり阻害要因しかない。資本主義の法則が自己を貫徹していることは、明らかであり、この世界の戦争状態が終われば、急速し、そしてより緊密な仕方で世界は経済的に結びつかざるを得ない。こんなことは自明の理だ」
2.古いものへの興味
「非常日本」の今日、自分が書いている様なものが、到底一滴の重油、一片のアルミニウム程の役目も勤まらないのは勿論である。然し、経済がまだ中国の社会で「萬有学」として立って居た頃、若し中国人の誰かがこんなものを書いたら、或いは異端邪説の罪で忽ち首をなくしてしまったかも知れないと想像はつく。思う事が書けるのは、本人には一番有難い事である。
3.戦争と日本の運命
人間の合理的思惟に堪えられないものが勝つことはありない。そうだったら歴史というものはおよそ意味がないことになる。世界史は「ヒューマニティー」の方向に沿ってのみ進展する。いいかえれば「ヒューマニティー」を担っているもののみが世界史の真のトリガーたりうる。これが世界史進展の法則だ。現在の世界的対立を見ると「ヒューマニティー」を担っているのは、明らかにデモクラシー国家側であって、枢軸側ではない。だからこの世界戦争の究極の勝利は必ずデモクラシー国家のものだ。
4.自由の精神
自分は人間の自由の精神とその進歩をかたく信じる。それは人類の歴史が証明しているし、将来においても必ず貫かれる。その意味において、自分はつねにオプティミズムである。
5.マッセンのリーダー論
鋭いとか、きれるとか、理論家であるとかいったエレメントよりも大衆にとっては自分たちと同類であると感じ、しかも人間的な善良さと親近性を覚え、かつ行動力において自分たちに立ち勝っていると思わせる人間―そしていつも一歩だけ先にいて方向指示を与える人間のリードに従うのでないだろうか。
6.宇宙観
政治思想の根拠をなす宇宙観は、太一又は太始を本とし、陰陽を対極とし、建てし天地、四時、萬物の順正和合を本体とせるものである。かかる思想は自然に依存し、自然に痛切なる関係を有し、自然に敬一な尊嵩を有するもの。
7.二法の併用
帰納法も演繹法も排他的に存立不可能であり、凡て正確なる知識の把握は、この二法の併用を持って可能となる。
8.勉強
各自の人格を自由に悠久に運動し生活していく大きな人格を建設して行く事。もう一つ別の言葉で云えば人類が其の歴史を創設していく為に各個人に命令を賦課した行動。
9.兆民には及ばなかった
自分は兆民には及ばなかった。兆民は、自分のように一つの本を厳密に読むことはしなかった。しかし、それをとってもって直ちに実地に応用して天下に活動した。
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