『ラスト・サムライ』の中の「インディアン」
執筆者:中澤 英雄【東京大学教授(ドイツ文学)】
話題の映画『ラスト・サムライ』を観た。いろいろなことを考えさせられる映画であった。
アメリカ軍人ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は、明治初期の日本に軍事顧問として派遣される。彼を雇うのは、明治政府に武器を売り込もうとする武器会社である。彼の役割は、新政府に反逆する参議(英語ではminister)「勝元」(渡辺謙)一派の反乱軍を討伐するために、新政府の兵士たち――農民上がりの新兵――に銃の使い方を教え、軍事教練を施すことである。戦闘中に勝元軍の捕虜になったオールグレンは、彼らの村で暮らすうちに、新時代に反逆して伝統的な武士道に生きる勝元ら「最後の侍」たちに魅了され、やがて彼らの一員になって戦う。
時代が一八七七年に設定されていることからもわかるように、映画のモデルは西南戦争である。しかし、フィクションであるから、事件の経過もだいぶ違うし、勝元はあまり西郷隆盛に似ていない(風貌もそうだが、人間面でも)。勝元ら「最後の侍」たちは、いわばアメリカ人が理解した武士道という、一種の理想像の権化なのである。アメリカ映画にしては武士道をたいへんよく理解し、しかも非常に肯定的に描いている。美化している、とさえ言えよう。
オールグレンは南北戦争(一八六一~六五)の英雄であった。彼はその後、カスター将軍の部下として、対インディアン戦争に従事した(今日では「インディアン」という語は差別語だとされているが、歴史的事実を述べるために、以下でもアメリカ先住民をこの用語で呼ぶことにする。筆者にはアメリカ先住民を蔑視する意図はない)。そのとき彼は、インディアンの戦士ばかりではなく、村の女、子供までも虐殺した。この非人道的行為がときおりフラッシュバックとなってよみがえり、悪夢となって彼を襲う。このトラウマから気を紛らわすために、彼は酒におぼれ、アル中になっている。彼は、自分の罪悪感から逃避するために、エキゾチックな未知の国・日本に行くことを承諾する。
彼の「前史」は、単に物語を起動させるための仕掛けであるばかりではない。もちろん、「最後の侍」たちの武士道に徹した厳しいまでに純粋な美学を描くのがこの映画の中心なのだが、それはオールグレンのインディアン体験と密接にかかわっている。
かつての西部劇に出てくるインディアンといえば、野蛮人の代名詞であった。インディアンは故なくして白人の入植地を襲い、略奪し、そして最終的には騎兵隊によって退治され、めでたしめでたしとなる。文明=善が野蛮=悪を征服することは、文明の進歩として肯定された。だが、このような描写が白人の自民族中心主義的な視点からの一方的な記述であることは明白である。歴史の真実は、白人が先住民族を殺戮し、彼らの土地を略奪し、彼らの屍の上にアメリカ合衆国を建設したのである。
当然のことだが、メインストリームの白人たちは、このような血にまみれた歴史を直視することを好まない。西部劇は、自らが加害者となった惨劇を英雄譚に変える物語であった。西部劇によって、白人は自らの犯罪を隠蔽し、正当化してきた。
しかし、これは偽りの物語である。偽りの物語はいつかその嘘がばれる。ベトナム戦争や黒人の公民権運動は、アメリカ白人に潜む自民族中心主義を暴き出し、その過程の中で、アメリカ先住民族にまつわる暗い過去も徐々に意識にのぼってきた。
先住民族の復権は、アメリカ合衆国だけの問題ではなかった。環境問題が地球規模で深刻化するのにともない、自然と一体になって生きてきた先住民族の知恵を再評価する機運が世界各地で高まってきた。おりしも一九九二年にコロンブスの「アメリカ発見」五百周年を迎えた。この「発見」が、ヨーロッパ白人による南北アメリカ大陸の先住民族の虐殺と支配、その文化と宗教の破壊であることが、先住民族の側から告発された。その年、リオデジャネイロで「国連地球会議」が開催され、翌一九九三年は国連の「国際先住民族年」とされた。
ケビン・コスナー監督・主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(一九九〇)は、このような世界的な先住民族復権の機運の中で作られた、それまでの西部劇とは一線を画するインディアン映画であった。この映画の中では、インディアンはもはや絶滅されるべき野蛮人ではなく、白人とは違った独自の文化を持つ対等な人間として描かれる。古い西部劇の「文明対野蛮」という図式は、「異文化の交流」という図式に代わった。
『ダンス』の主人公のジョン・ダンバーは、オールグレンと同じく南北戦争に参加した軍人である。物語の時期も同じ南北戦争後。両作の背景は似ている。私には、『ラスト・サムライ』は日本を舞台にしたインディアン映画に見えた。この映画のいくつかの「奇妙さ」は、これを擬装されたインディアン映画と見なすことによって腑に落ちるものとなる。勝元の村はインディアン部落に似ている。勝元軍と官軍の戦闘場面は、まさにインディアンと騎兵隊の戦闘である。剣と弓矢しか持たない勝元軍は、新式銃で武装した官軍に、まさにインディアンのように殲滅される。しかし、それはもはや「文明対野蛮」の戦いとしては描かれない。
勝元が体現するのは、武士道という伝統文化である。彼に対立するのは、欧米文化の導入に熱心な「大村」(モデルは大村益次郎と大久保利通)である。近代派の大村は、アメリカ武器商人から賄賂を受け取る悪役として描かれる。勝元は、文明の利器である鉄道を襲撃するので(インディアンと同じだ)、たしかに反近代である。しかし、それは「野蛮」でも「退嬰」でもない。彼は利害損得を超えた武士道という高貴な精神性に生きている。伝統文化は、近代文明の物量と軍事力の前に敗れはするが、その精神性において近代文明にまさっているのである。
「伝統と近代」という二つの文化の対立は、見方を変えれば「精神と物質」の対立である。そしてこれは日本だけの問題ではなく、アメリカの問題でもある。オールグレンはアメリカの文化に生き甲斐を見出すことができない。自国では内面に空白をかかえ、アル中に陥っていたオールグレンは、勝元の村に来て、「スピリット(霊)」を感じ(Ifeelspirit)、魂の平安を取り戻す。彼はインディアン虐殺の悪夢から解放される。伝統的日本は彼の魂の救済の地となるのである。
「伝統と近代」「精神と物質」という対立は、オールグレンの目を通して、先住民族と白人という、自国の対立にも重ね合わされている。彼はノートにインディアンの生活について、詳しいメモとスケッチを残している。彼は勝元とインディアンについて語り合う。彼は『ダンス』のジョン・ダンバーと同じように、インディアンを異なった文化を持った対等の人間として尊敬していることがほのめかされる。そのような彼であるからこそ、彼は勝元を、文明の進歩を阻害する野蛮人としてではなく、別の文化の高貴な人間として尊敬できるのである。
だが、オールグレンのインディアンに対する心情は、ジョン・ダンバーよりもさらに先を行っている。彼には、自分が犯した罪への罪悪感と、自分にそのような罪を犯させたアメリカ白人文化への嫌悪感がある。彼はむしろインディアンに自己同一化しているようにさえ見える。オールグレンが官軍との戦闘で、官軍側にいた武器会社の上司たるアメリカ軍人を殺すのは、虐殺されたインディアンのための復讐でもあり、軍事国家アメリカへの反逆でもある。彼はまだ、直接インディアンとともに彼らの権利のために戦うことはできないが、日本のインディアンたる勝元とともに戦うことによって、己が犯した罪の代理的な贖罪をはたすのである。
映画のエピローグで、彼は勝元の村に戻り、村の一員になる。『ダンス』では、主人公がインディアンに共感を示しつつも、最終的には白人世界に戻っていったのとは対照的である。『サムライ』の結末は、オールグレンがインディアンの一員となることを暗示している。村は、何事もなかったかのような超時間的な桃源郷として描かれている。これは、白人が贖罪によってインディアンと和解する理想の象徴である。『ダンス』と『サムライ』の結末の相違は、アメリカにおける先住民族問題の、一三年という時代の差を反映しているのであろう。
さらにこの映画は、九一一事件以降、「テロとの戦い」に邁進する現在のアメリカの動きも間接的に批判している。
冒頭にも述べたように、オールグレンが日本に派遣されたのは、武器会社が明治政府に武器を売り込むためであった。近代化に熱心な明治政府はフランス、ドイツ、オランダなどヨーロッパ諸国からは法制、建築、技術などを導入しようとしているが、アメリカから導入するのは武器だけである。これは、軍事国家アメリカ(現在のアメリカ)へのアイロニーに満ちた自己批判である。
映画の最後の場面では、若き明治天皇は、大村の補佐を受け、アメリカの武器会社と契約を結ぼうとしている。そこに、生き残ったオールグレンが勝元の形見の剣を持って入ってくる。天皇は勝元の刀(武士の魂)を受け取り、武器取引で私腹を肥やそうとしている大村を解任し、アメリカの会社との武器契約を取り消す。武器商人は憤然として御前から退出する。
この場面に込められたメッセージは明瞭である。たしかに勝元は死に、「サムライ」の時代は過ぎ去った。しかし、「サムライ」の魂=武士道は、物質的には近代化=欧米化の道を歩まねばならない日本にも継承されねばならない。ただし、近代の武士道とは、決して単なる軍国精神であってはならない。日本はアメリカの軍国主義に盲従するのではなく、自国の伝統と精神性を大切にし、勇気をもって自主独立を貫いてほしい、と映画は語っている。なぜか? 武器しか輸出できないアメリカには、もはや「スピリット」が存在しないからである。もし日本までもがアメリカの言いなりになってその高貴な精神性を失ったら、インディアン虐殺(その背後には広島・長崎やベトナム戦争、さらにはイラク戦争までもがかいま見える)という大罪を犯したアメリカが、贖罪し救済される可能性はなくなる。安易に「日米同盟」(武器契約)に走るのではなく、日本が日本の「スピリット」を発揮することこそ、アメリカへの真の援助となるのである、とこのアメリカ映画は語っている。
アメリカといっても軍事強硬派の一枚岩ではないことを、この映画は教えてくれる。そして、日本が現代において発揮すべき「武士道」、「スピリット」とは何か、ということを考えさせるのである。
※お断わり:映画を一度しか観ていないので、ストーリーの紹介で細かな不正確さがあるかもしれないが、ご容赦を願いたい。
中澤先生にメール E-mail:naka@boz.c.u-tokyo.ac.jp