日本に帰ってからの心のざわめき
執筆者:飯田 亮介【イタリア・モントットーネ村在住】
昨年十二月末に日本に帰ってきてから、かつて覚えのないこの国に対する「違和感」が胸をはなれない。かといって、私の留守の間に日本がなにか大きく変わってしまったとも思えない。いったい私はどうしてしまったのだろう。
外国から日本に帰るたびに、日本を新たな目で眺めることになるというのは、私にとって新たな体験ではない。大学生の頃、中国を初めとしたアジアの国々に通っていたころは、日本と言う国は物はあふれかえっているが、人の心になにかが足りなくなっていると考えさせられ、月並みな表現ではあるが「貧しいけれども心は豊か」な人々の住む国々から何かを学び、日本にもって帰ってくることが出来ればと考えていた。イタリアから帰ってくるようになってからは、日本の治安の良さや、アルバイトであれとにかく仕事があること、電車がすこしでも遅れると「大変申し訳ありません」などとアナウンスが入るほどのその正確さを評価することも覚えた。ルーズではあるが、もっと「人間臭い」イタリア人の感覚が懐かしくなることも往々にしてあったが。
いずれにせよ、帰国当初は新たな発見をしたり、違和感などを覚えつつも、そのうち自分をとりまく日本の現実に慣れてしまうことが出来るのが、常だった。だが、今回は違う。
日本の周囲には「他」が見えなくなると言うバリアーが張り巡らされている気がする。そして今回はそのバリアーの存在に慣れることがどうしても出来ない。それがいま私のもつ「違和感」だ。
周囲にある「他国」が見えない。世界が見えない。情報がきこえてくることもあるが、やはり、ほんとうに見えて来ることは少ない。ここにいると、なにか外の世界とは隔絶した空間に生きているような気がしてくる。口にするのも眼にするのも、外国からやって来たものばかりだというのに。
この国で生きる「他人」同士の間にある隔壁も以前にくらべて、厚く強固なものになった気がする。電車のなかで私のまえで黙って座っている人々は、たしかに目の前にいるのに、誰よりも遠い存在のようだ。「人にやさしく」と適度な距離をはかっているうちに(もしくはそうするように教育されているうちに)、「他人にさわらず」とどこかで転化してしまった末の隔壁なのだろうか。目の前にいる他人より、毎晩ブラウン管の中ではしゃいでいる会ったこともない「オピニオンリーダー」の方が、なんだかずっと身近な気分がするというのはやはり、奇妙だ。
慣れてしまえば、バリアーにかこまれ、それぞれの隔壁のなかでおくる日本社会の生活も、せわしなくこそあれ、それほど息苦しいものでもなく、自分の隔壁のモニターにうつる遠い国の騒ぎをみながら、「日本って平和だなあ」なんてセリフも言いたくなることは分かっているが、今回ばかりは、どうにもこうにも慣れることが出来ない。
バリアーのなかで安穏と暮らしているには、いまの国際情勢は危うすぎる気がする。日本人の誰もが「知っている」現在の反テロ戦争の動きにしてもそうだ。「アフガニスタンで米軍による新たな誤爆」という小さな記事を先日眼にした。「ひどいな」と誰でもそこで感じると思う。しかし、それが実は日本にも関わりのある悲劇であることを考えさせるような考察はその記事にはなかったし、そんなことを考える人も少ないようだ。アメリカの爆弾で死亡したアフガンの民間人は、日本が(もっと言ってしまえば、わたしたちが払った税金と、わたしたちの政府、そしてわたしたち全員がある意味で)殺した人々でもあるのだ。アメリカの攻撃は日本の政府によって、経済的にも政治的にも応援されているのだから。 日本は「人道的支援」を理由にアメリカに資金を提供している—-そう反論する人もいるかもしれない。だが、いったん差し出したお金に名前などついてはいない。かつては同じアジアの先進国として日本のことを比較的好意的にみていた中東・南アジアのイスラム教徒たちが、今、日本をアメリカの側にたって自分たちを攻撃する敵国とみなすこともありうるという話は、このバリアーのなかまではきこえてこない。
またつい先日、ブッシュの演説で、アメリカの対イラク政策を自画自賛した後に、アメリカの行動を支持する世界の国々のリストの最初のほうに日本の名前をあげていた。それを聞いて喜んでいるようでは、危ない。この国は今、アメリカに攻撃をされている者たちの恨みを買ってしかるべき、「ご指名」を受けてしまったのだから。
いやがおうにも、日本は世界の中にあり、世界中の国々と相互に関わっているのである。当たり前のようでいて、それが実感しづらい空気がこの国にはある。
バリアーを、そして隔壁を作り出したのが誰なのかは、まだ私にはわからない。政治的な操作も、ジャーナリズムの怠慢も、民族性も歴史の影響も、あるいは島国と言う特殊な地理もあるのかも知れない。いずれにせよ、このバリアーはわたしたちの安全な生活を守ってくれるほど親切なものではない。なんとかしてそれを取り払い、一億を越える国民がお互いの隔壁を越え、本当の世論をたちあげて行かぬことには、この国はあぶない――そんな危機感が私のなかには強くある。
さて、いま私がこんな気分でいるのは、「反戦の手紙」の翻訳をしたからだと思う。「翻訳とはもっとも深い読書のしかたの一つだ」という言葉を読んだことがあるが、まったくその通りで、ここまで深く一冊の本を読んだことは私の人生の中でも恐らくなかった。まだ一冊しか翻訳をしたことのない私がこの職業を語るのは、時期尚早でもあるだろうが、「翻訳者とは神(作者)の言葉を人々(読者)に伝えるシャーマン・巫女のようなものだ」とでも言いたい気分がする。自己をむなしくして、原作者の言わんとすることをその魂から読みとり、誠実な形で人に伝える……経験のあさい自分はこの翻訳作業を終えた今も、「反戦の手紙」の作者テルツァーニ氏の主張に心を支配されている部分がかなりある。自分で考えたつもりで、じつは無意識のうちに、彼の言葉を形をかえて語っているだけの可能性もある。それは白状しなければならない。
だがこの「洗脳」状態はそう悪いものではない。私にひとつ、世界を見る新たな視点を与えてくれたのだから。 いつの日か彼の言葉を消化しきって、自分の血肉に出来る日が来ると思う。その時には、もうすこしまとまった形で、今回の「ざわめき」の原因と対策を説明できる気がする。
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