執筆者:色平 哲郎【長野県南相木村診療所長】

往診に向かうクルマのなか、ラジオから「いい話」が聴こえてきた。
番組のゲストに招かれた男性は、数年前にお連れ合いに先立たれて深刻な鬱状態に陥り、入院したのだという。そのときの話である。
彼は、毎日「琥珀色」の栄養剤の点滴ばかり、ベッドのうえで断食状態がつづいた。くる日もくる日も栄養剤を眺めているうちに自分が情けなくなり、その琥珀色の液体に誘われて無性にウイスキーが飲みたくなった。
点滴の交換に来た看護婦さんに、「ひとつ頼みがある。この点滴を見ていたら、たまらなく、飲みたくなってきた。ほんの少しでいいから、ひと口、ウイスキーを飲ませてくれませんか」と哀訴した。 看護婦さんは、はじめはびっくり仰天した顔つきになったが、すぐに彼の耳もとに口を寄せて、「いいわよ。でも、先生には、ヒ、ミ、ツ」と思わせぶりに小声で応えて出て行った。
しばらくして、次の点滴の時間。看護婦さんはニコニコしながら手に琥珀色の点滴をぶら下げて部屋に入ってきた。「おまちどうさま。ウイスキーを入れてきたわよ!」と元気よく言った。意表をつかれた男性は、一瞬間を置いて、訊ねた。「ありがとう!!で、これ、どこの銘柄?」「うーん、毎日のものだからニッカだわね」 彼と看護婦さんは心の底から笑ったそうだ。よくある「叱咤激励」の「励まし」ではなく、ラポール(親密度)を保ちながら、瞬間的な切り返しで、しかも肩透かしを食わせることなく相手を納得させ、ウイスキーへの渇望をも絶つ展開に思わず感服した。
職業的な反射神経もあったのだろうが、その看護婦さんの柔軟な発想に人間的な温かさを感じた次第である。「笑い」はつくづく関係性の潤滑油だと思う。
お笑いの本場である「大阪」の病院や診療所では、きっと医師と患者さんの間でも絶妙な笑いのキャッチボールが行われていることだろう。どんな「笑えるやりとり」があるのか、教えていただきたいものだ。
クルマでの往診を終え、診療所に帰ってみると、現実の厳しさが待ち受けている。
ある自治体保健師さんからこんなメールが届いていた。「単刀直入に申します。四月から当村の診療所で医師が不在となってしまうため、後任の先生をお迎えしたいのですが、どこに募集をかければいいものか……あったかい先生はいませんか。いたらご紹介ください!!」
その村では、これまでも八方手をつくして医師を探し、ようやく赴任してもらったものの任期半ばでUターン。頼み込んでも1~2年の勤務が精一杯だったらしい。 そこに平成の大合併。村は周辺の数ヶ町村との合併を控えているが、住民の「診療所存続」の願いは強く、後任の医師さえ見つかれば診療所は継続できるのだという……。
「いい先生がいたら紹介してほしい」とは、村の保健医療担当者の悲鳴であろう。最近、こうした「人材紹介」的な問い合わせが、頻繁に寄せられるようになった。
テレビ・ドラマや、アニメで「へき地の医師」「離島の医師」がクローズアップされ、それなりの人気を集めているようだが、実のところ表層的なイメージの氾濫でしかない。
地方の「医師はがし」は、深刻度を増す一方だ。大学医局が、臨床研修の必修化に伴い、「自己防衛」のかたちで市中病院から医師を引き上げている。そのあおりで最も条件が悪いとされる「山間へき地・離島」診療所に医師がますます回ってこなくなりつつある。
医療界にさまざまな「競争」が持ち込まれるなかで、守るべき「一線」がどんどん切り崩されている気がする。
三月九日付の朝日新聞・社説に「定額制を広げよう入院費」と題した記事が掲載された。
『定額制の導入により、患者にとっては医療費や入院期間が明示され、退院までの治療計画も示してもらえる。診療データを分析して報酬を決め、その情報は公開されるため、病院ごとの診療実績が比較できるようになり、病院のコスト意識も高まる』と記し、民間病院での定額制導入は『一歩前進』としている。
私が、これは問題だ、と思った部分は、次のくだりである。
『日本の医師や看護師の数は欧米と比べて同水準なのに、入院日数が長く病床数が多いため、病床あたりでは半分から三分の一となっている。最近の医療事故多発の背景には、こうした手薄い医療がある』と述べている点だ。
いつから、日本の医師や看護師の数が欧米と同水準になったのだろうか。
「OECD(経済協力開発機構)」の2003年版データでは、人口1000人当りで日本の医師数は「1.9人」。米国は「2.7人」。独仏はそれぞれ「3.3人」。英国「2人」。スウェーデン「2.9人」。スイス「3.4人」……。韓国はちなみに「1.3人」だ。
実証的なデータを示さずに「医者や看護師は余っている」というイメージだけを頼りに、「市場競争」をもちこめば医療の「質」が向上すると断じるのは、はなはだ危険ではないだろうか。
何もかも「市場に任せればいい」とする論考は、人間がつねに「経済的」に「合理的」な行動をするとの前提に立っている。原則的には市場に欠陥はない、としている。市場に任せれば、財貨の最適な配分ができると信じこんでいるのだ。だが、はたしてそうか。オカネの損得勘定だけで人は生きているだろうか。
財政の建て直しは急務だが、市場に任せればすべてが解決できるとするのは、一種の「信仰」にちかい。人間は競争のほかに「協力」する術を知っている。AかBか、右か左か、そんな二者択一的な選択ではなく、意見の対立者が、「合意」を目指して、納得するまで話し合う。
そんな仕組みづくりが、医療界のみならず、日本の未来の扉を開くためにこそ求められている。