地域に生きるということ
執筆者:藤田 圭子【早稲田大学政治経済学部3年】
ここに一通の手紙がある。昨年、92歳で他界した曾祖母から・・・ではなく、その姉からの手紙である。この大大伯母は九州の息子のところで、隠居生活を送っている。この大大叔母との手紙のやり取りが、嬉しくもあり、学びでもある。
この大大伯母からの手紙で改めて「地域」「日本人」ということを感じた。
私が感じる「地域」を、この大大叔母からの手紙を元に書いてみたいと思う。一地域のことだけれども、地域が過疎化するにつれ、また価値観の変化で消えていきつつある文化を再考していただく機会になればと願っている。
私の故郷は愛媛県宇和島市遊子(ユス)水荷浦(ミズガウラ)である。短い住所だが、郵便物はこれで届く。宇和島の人口が6万ほど、その中の遊子は1300人ほど、そして水荷浦が200人ほどである。この水荷浦に薬師堂が一つある。
幼い頃、曾祖母が私に話してくれた昔話の中にこの薬師堂の伝承があった。『日本昔話』全巻よりも私の胸の中に生き続けている昔話である。それは、地域に人が生き続けてきた証しだからだろうか。この伝説を簡単に紹介してみたい。
水荷浦は半島の突先で、家の前が海、家の背後は段々畑という地域である。この段々畑の中腹に、今回紹介したい薬師堂がある。このお薬師堂、またの名を「瞬き薬師如来」という。この呼び名が伝承の元になっている。
行基菩薩の作といわれるこの“お薬師さま”、かつては住古満野刑部の守り本尊だったという。この家が断絶したので、水荷浦のお寺に安置されることになった。ある時の晩、その如来を、九州の賊船が盗みにやって来た。賊船は首尾よくお寺から如来を盗み出し、船を漕ぎ出した。明け方まで、櫓を漕いだので数十里は進んだだろうと辺りを見回すと、まだ水荷浦の沖を漂っているのだった。それで、如来の威光だと感じた賊たちは、如来を海岸の石の上に捨て去った。
水荷浦の人たちは、まさか如来が盗まれたとは思っていなかった。そんな折、夜毎に岩の辺りが照り輝くのを水荷浦の人たちは不思議に思い、日のある内に確かめに行った。そこで、如来を見つけて“たまげた”(驚いた)。直ぐに、持ち帰り、元のお寺に安置した。
時は流れて、元禄の頃。水荷浦に信心深い優婆塞仁左衛門という人がいた。両親に仕えるようにこの如来に帰依していた。日頃の行い故か、仁左衛門に如来のお告げがあり、彼は黄金を手にした。彼はそのお金を私事ではなく、この如来のために使おうと決め、如来のお堂を建て直した。それでもお金が余ったので、本尊と厨子を修復しようと京都へ赴き仏師を訪ねた。仏師は、この本尊を渡すのを惜しんで修復した本尊と二つの偽者を用意した。そして、仁左衛門にこう言った。「この中からあなたの本尊を持ち帰りなさい」と。仁左衛門は迷いに迷った。そして、本尊に願った。「どうか名乗ってください」と。そうすると、一つの神体が瞬きを三度し、口からは光りを放った。これで、仁左衛門は本尊を見極めることができ、水荷浦へと連れ帰ったという。これ故、「瞬き薬師如来」という名前が今に伝わっている。
私には単なるお堂なのだが、大大叔母の手紙によると、大大叔母は毎朝晩この如来に向かって祈っているのだという。遠い九州の地から。90歳を超えた大大叔母が未だに覚えている伝承であり、未だに信仰している。そのことに驚きを感じ、口伝えによる伝承の凄さを感じた。
私は曾祖母やこういう大大叔母たちのお陰で地域の伝承を覚えている。かつて、曾祖母たちが覚えていたほどの伝承は知らないかも知れないけれども。私が覚えきれていない原因に、社会の変化が挙げられると考える。一つは「伝承や生き方は両親ではなく、祖父母たちから教わる」ということが、核家族化によってその形態が崩壊していきつつあるということ。それに付随して地域社会の変容も挙げられる。もう一つは、価値観の変化で大人たちが自分が覚えている地域の話しをせずにゲームや玩具を買い与えていること。そして、もう一つが、過疎化・少子化による子ども間での伝承が絶えてしまっていること。全ての地域でこの現象が起きているとは言えないけれども、起きている地域もあると言える。
水荷浦では、小学生が集団登校をしていた。私が小学校・低学年の頃はこの集団登校の間に、年上の人たちに道端の草花の遊び方、土地の名前などを教えてもらっていた。当り前だと思っていたのだが、この前、隣りに住む小学生に土地の名前を聞いたところ、首を横に振った。私たちの頃、30人を越した水荷浦の子どもたちが、今では6人ほどしかいない。土地の名前すら伝わっていないことに寂しさと危機感を抱いた。土地の名前だけでなく、この“お薬師さま”の伝承も知らない。
私が知らない伝承もあると思う。でも、私が知っている伝承は我が子には伝えたいと思う。伝承だけでなく、土地の名も、言葉も、自然の流れも。水荷浦にも歴史がある。それは、日本全土から見たら小さな価値無きものかもしれない。しかし、私たち水荷浦で生きてきた人々の過程、育んできたものを途絶えさせたくないと思う。地域で伝承だけを伝えるという生き方は出来ない。経済的利益を生まないため、今の社会では生きていけないから。しかし、多くの人に伝えるという大義ではなく、我が子、孫に伝えるだけでも十分意味のあることだと思っている。
曾祖母や大大叔母たちの生きる姿に日本人としての生き方を感じ取って来たからかも知れない。神や仏に祈る姿、お米一粒にも神が宿るとする姿、自然に対する姿勢・・・教科書では学ぶことのできないことを学んだと思う。曾祖母や大大叔母は自分が何の役にも立ってないと嘆くことがあった。でも、私に多くを教えてくれた。地位やお金ではなく、本当に大切なものを。
私の曾祖母や大大叔母だけが特別なのではなく、地域に生きる人は多くを知っている。伝承をすることを止めたのは、伝えたくないからなのか。そうではないと思う。聞かせる相手が側に長い時間いないからだと思う。小さい頃のそういう異世代交流は大切な時間だと思う。もっと、こういう時間を持たせてあげたいと思う。
つい先日、上京して来たと思っていたら、もう就職活動の話しが出る時期になってしまった。私の願いを叶えるには、水荷浦に戻って生活をすべく仕事を見つけなければならない。とても、難しい。でも、みすみすと地域の崩壊を見ていることもできない。これを読んでいただいた多くの人生の先輩方に何かアドバイスを得ることができれば幸いに思う。
藤田さんにメールは E-mail:yusukko@cf7.so-net.ne.jp