憲法と「世直し運動」(1)
執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】
改憲、護憲、論憲、加憲、活憲、創憲、、、、私は憲法に関して日本のメディアで眼にするコトバを並べてみた。ほんとうによく出揃ったと思う。今のところ欠けているのは「廃憲」だけで、あまり見られないのは、縁起が悪いから口にされないためかもしれない。
私は少し前現在日本で進行中の憲法論議に接する機会をもってつくづく思ったのは、私たちが特別な憲法観をもっていることである。憲法改正が今までなかったのも当然に思われた。
■私の理想を憲法に
インターネットの自民党・ホームページにある「憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム」をクリックする。そこでこの党の政治家の発言を読むと彼らが何を憲法に期待するかがわかって面白い。
例えば、熊代昭彦衆議院議員は次のようにいう。
《よい家族こそ、よい国の礎である。特に、女性の家庭をよくしようというその気持ちが日本の国をこれまでまじめに支えてきたと思う。家庭を大切にするということ。ドイツの憲法には、「婚姻および家族は、国家秩序の特別な保護を受ける」と書いてある。こういう書き方もあるし、「国民はよい家庭をつくり、よい国をつくる義務がある」ということを書くことが可能であれば書いて頂くとか、ぜひ家族を強調して頂きたい。》
ドイツでは同棲している同性愛者も婚姻に準ずるものとして「国家秩序の特別な保護を受ける」ようになったが、「女性の家庭をよくしようというその気持ち」を重視する熊代議員の理想は専業主婦の家庭と想像される。
この引用からわかるように、この「憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム」での多くの発言には一つのパターンがある。それは、政治家が自分の理想を述べるか、その理想の実現が現憲法に妨げられていること嘆くかする。そうしてから今度出来る憲法には是非ともこの理想が取り入れるべきであると主張する。
発言する自民党の政治家の理想はこの「よい家庭」以外いろいろあるようで、奥野信亮衆議院議員は次のように発言する。
《、、、国を愛するとか、国の帰属意識というのが全くない若者が育ったなと、こういうふうに思う。その原点は何だろうといったときに、憲法9条で、戦争は放棄するんだ、とにかく平和を追求するんだと、平和ボケにするような主張ばかりが書いてあって、国が攻められたら守るんだぞということをはっきり言わないと、日本の国の一員なんだとか、その日本を愛するんだということにつながってこないのではないか。》
この政治家の理想は、日本人が「国の帰属意識」と「愛国心」をもつことである。この理想が実現できないのは現憲法の9条のために「平和ボケ」なったからである。ということは、「平和ボケ」と反対の状態である国防意識をもつことによって(国籍を所持するだけでない、真の)「国の帰属意識」と「愛国心」が養われると奥野衆議院議員は思っているようである。
自民党政治家の大多数は奥野議員と似たような理想の持ち主らしく口々に現憲法の「無国籍」を嘆き、今度できあがる憲法が日本の伝統、文化、歴史、アイデンティティ、「わが国のかたち」、「国柄」を国民一人一人に感じさせるものでなければいけないと要求する。
■憲法は最高の法規?
「憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム」の政治家はあまり考えないが、「私の(我が党の)理想を憲法に」ということになったら困ったことにならないだろうか。
すでに述べたように熊代昭彦衆議院議員にとって「よい家庭」とは「女性の家庭をよくしようという気持ち」が重要な役割を演じる家庭である。ところが、職業があり家の外で働く女性のなかには、男性のほうこそ「家庭をよくしようという気持ち」をもつべきとして、またご主人こそが産児休暇をとって家事・育児に専心することを要求する人もいるかもしれない。また縁がなくて一生独身で過ごす人もいるし、同性愛者もいる。「国民はよい家庭をつくる義務がある」が憲法条項になり「よい家庭」が熊代議員の考える意味で解釈・運用されたら憲法違反者が続出するのではないのだろうか。
私がこう書けば日本人は物事をそんなに杓子定規に考えないと誰かがいいだすかもしれない。「よい家庭をつくるい義務」という憲法条項は「皆でよい家庭をつくりましょう」という呼びかけに過ぎない。それとも、この憲法条項は国民の納税義務と同じように権利・義務を規定する法規なのであろうか。
私には、このようにいろいろことが気になってくるのに、「憲法改正プロジェクトチーム」の自民党議員は物事を区別する必要を感じていないようである。このように考えていくと私に奇妙な疑いが浮かんでくる。それはこうだ。彼らの無頓着は、憲法を論じると彼らには法的意識が希薄になるからではないのか。
ここで重要なことは「憲法を論じると」という条件である。デパートで鉛筆を買う小学生も自分にお金を払う義務が、またレジの店員に代金を受け取る権利があると漠然と思っているので法的意識がある。いわんや成人で立法府に属する政治家にいつも法的意識がないことはないはずである。ということは、憲法について考えたり話したりすると彼らは例外的状態に陥り、法的にものごとを考えられなくなる、そういうことにならないか。
これはほんとうに不思議なことである。というのは、「憲法改正プロジェクトチーム」の自民党議員は「憲法は最高の法規」という文句を何度も口にするからである。とすると、憲法は彼らに「最高」のもの(、おそらく最高の理想のようなもの)かもしれない。でも「法規」であるかとなると現実にはかなりあやしい。
私のこの印象が見当違いでないことを示すために別の例を挙げる。「憲法改正プロジェクトチーム」の自民党議員は口々に現憲法が施行されてから日本人が権利ばかり主張し義務をわきまえなくなったと嘆く。でも全員が権利ばかりを主張する状況は想像しにくい。というのは、法律では権利と義務は対になっているので、権利を主張する人がいる以上、どこかに義務を果たす人がいるはずである。
自民党議員は権利というコトバを法的な意味でなく「皆が厚かましくなって要求ばかりする」という意味でつかっているのではないのか。あるいは、彼らは立法府に属しながら自分自身が権利・義務を規定する憲法条項に拘束されていることに気づかず、「法的真空地帯」いるかのように錯覚しているのではないのか。だから全員が権利ばかり主張するという奇妙な発言がこれらの政治家の口から出てくる。いずれにしろ、憲法の話になると、彼らにそれが法規であるという意識が欠如していることになる。
■一番欠けている考え方
それでは、憲法を論じはじめると保守党の政治家はなぜこんな奇妙な状態に陥ってしまうのだろうか。
世の中にはいろいろな人間いて、なかには自分の欲望をコントロールできないために血生臭い事件をひきおこす人だって少なくない。理想が異なるために紛争になり、議論にとどまらないでバットでなぐろうする人もいる。また商売でも汚い手をつかって詐欺をする人も出て来る。
(どこの国もそうであるが、)私たち日本人もそのような紛争が発生することを前提とし、前もって血生臭い凄惨な状況を避けたり、また発生しても秩序の枠のなかにおさまるようにするためにいろいろなルールや法律がある。これらの法律の元締めとして憲法があるのではないのか。
そう一方では思いながら、国家の一番ベーシックな法である憲法を論じはじめた途端、私たちはそれが法律であるということにうっかりする。こんな奇妙な事態に至るのは、私たちが国内で対立や争いが発生する可能性を想定したくないからではないのか。
理想やイデオロギーや宗教が異なる人々が同じ国家のなかで共存しなければいけない。対立・紛争は当然発生する。でも収拾できなくなり内乱に発展したり、また国家機能が停止したりすることがあってはならない。そのために、私たちには憲法がある。日本の憲法論議で一番欠けているのは憲法についてのこのようなシビアな考え方ではないのか。
このシビアな憲法観をもたないからこそ、憲法が法規である意識が失われ、「私の(わが党の)理想を憲法に」というのんきな話になる。「憲法改正プロジェクトチーム」を組む自民党は今年11月に党結成50周年をむかえ、それに合わせて憲法改正案を作ると発表している。これは、憲法改正を一政治結社の記念行事の出し物と同列に扱っていることになるのに、この党の政治家その奇妙さにも気がつかない。この無頓着こそ彼らの呑気な憲法観の特徴である。
それでは、なぜ自民党の政治家は国内で対立や争いが発生する可能性を想定したくないのだろうか。これは、自分の家庭が円満だと思い込んでいる家父長的な男性と同じだからである。とすると、彼らは別のタイプの「平和ボケ」をわずらっていることにならないのか。自分さえ武器を持たなければ戦争にまき込まれないと思う彼らの同国人が国外向け「平和ボケ」なら、自分の国は「家庭円満」で「私の(我が党の)理想が憲法に」と思い込むのは(皮肉なことに)国内向け「平和ボケ」である。
■スポンジ憲法
日本で自民党の政治家にとどまらず、最大野党・民主党の政治も、(おそらく法律の専門家を除く)大多数の人々も憲法に(普通の国なら考えられないような)奇妙な期待をよせるのも、その条項が権利と義務に関する法規であるという意識がないためではないのか。
「憲法が美しい日本語で書かれていなければいけない」というのはよく聞く。私たちは、刑法の窃盗の条文を読んで「美しい日本語が書かれている」かどうか気にしない。憲法となるどうしてこんなことを期待するのか。現憲法がGHQの「翻訳憲法」であることを強調するために、このセリフが繰り返されるにしても、この期待そのものが奇妙に思われないのは、憲法が法律であるという意識が私たちのほうに希薄だからである。
また自民党議員をはじめ保守的日本人が日本の伝統、文化、歴史、アイデンティティ、「わが国のかたち」、「国柄」を憲法に感じたいというのも憲法が法律でないからである。日本の伝統や文化や歴史について知りたければいろいろなことができる。例えば、図書館でしかるべき本を手にするほうが目的に相応しい。彼らがそう思わないとしたら、それは憲法を何か万能薬のように思って過剰な期待をもっているからである。
こうして、憲法は国民のさまざまな期待・不満を吸い込むスポンジのような存在になってしまったのではないのか。「自民党がつくる憲法は『国民しあわせ憲法』です」ではじまる「憲法改正のポイント」(2004年6月)や、また「文明史的転換に対応する創憲を」という民主党「憲法提言中間報告」(2004年6月)を読むと、この「スポンジ憲法」の感が強まるばかりだ。
どこからどこまでを憲法で規定するか、またどこから一般法で仕切るか、立法と行政との関係、それどころか法一般と政治の関係をどのようにするかは、各々の国によって異なり、その意味で政治文化に属す。例えば、私が暮らすドイツは憲法を1949年に制定してから今まで50回以上も改正している。こうである理由の一つは、憲法の中で細かいことを決めすぎているからである。
ところが、自民党の「国民しあわせ憲法」も、また民主党の「憲法提言」も、このような区別を考えることもなく、重要そうなこと、けっこうなことは何でかんでも憲法にするという精神で作成されたようにしか見えない。その意味でどちらも「スポンジ憲法」の典型的な例である。少子化・高齢化、グローバリゼーションなど日本だけでなく先進国が多かれ少なかれ直面する問題がいろいろ挙げられている。これらの問題を憲法条項の中で言及することが問題の解決につながると日本以外の国の人々はあまり考えない。日本人がそう考えるとしたら、これは独創的発想であり、私たちの特別な憲法観の反映である。
成長経済のときにはどこの国でも政治家は自分の投票者の利益になることをしていれば済んだが、分けるパイがどんどん小さくなる現在、彼らのすることこともその分だけ少なくなる。問題も(また選挙民の利益も)複雑かつ不透明になり、理解するだけでもたいへんである。
反対にお手軽に参加できる憲法論議は政治家にだけでなく多くの選挙民に政治に参加し現実を変えているという幻想をもってもらうことができる。「国民しあわせ憲法」の中で、自民党が「このパンフレットは、、、憲法に関する国民的議論が活発に展開されることを願って作成したものです。どうか、一人でも多くの国民のみなさんが、私たちの活動に加わっていただけますように……」と訴えるのも、憲法を論じることが政治行為の代わりになっていることを物語る。こうして、国民の期待と不満を吸収する「スポンジ憲法」が機能するのではないのか。!
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