憲法と「世直し運動」(2)
執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】
■時代精神としての憲法
もうかなり前であるが、私が日本から送られた雑誌を読んでいると、現行憲法九条が「援助交際」をもたらしたと、或る文化人が嘆いているではないか。日本の議論に慣れていない人、例えば外国人なら憲法と「援助交際」の関係を唐突と思うかもしれない。でもこの文化人は自分が「風が吹けば桶屋がもうかる」と同じようなことをいったとは夢にも思っていない。だから彼は「憲法」から「援助交際」まで何が起こってそうなるかについて説明の必要も感じない。これは本当に面白い現象であるが、でもなぜ彼はこれほど無頓着でいられるのか。
彼だけでなく私たち日本人の大多数は、1945年の敗戦によって、それ以前の時代(戦前と戦時下)とは別の新時代がもたらされたと思っている。次に私たちは、こうしてはじまった時代が1947年に成立した今の憲法と連結していて切り離すことができないと考えているのではないのか。三つ目に重要な点は時代精神である。どの時代にも社会・人心に広く行き渡っている時代精神があって、同時代人はこの時代精神を空気のように吸っているとその影響を受けてしまう。
以上の三つの考え方の上に乗っかって半世紀近くも憲法論争が進行して来たのではないのか。
上記の文化人にとって1945年にはじまった時代が今も継続し、占領時代に制定された憲法が時代精神として日本国民の道徳心を麻痺させて、その結果「援助交際」になったことになる。逆に「援助交際」をなくすためには憲法を改正すべきということになる。この見解が、本人の文化人にも、多くの読者に唐突と感じられないのは、頭の中で、時代と憲法が相互に連結していて、その時代精神が人々の意識と行動をかたちづくると思われているからである。
ここまで、憲法を変えたいほうの日本人に焦点をあてて憲法観について論じた。著名文化人の呼びかけで、現在日本各地で護憲派の「九条の会」が生まれつつある。インターネットでこの会の関係者の見解に接して、私は改憲派と護憲派が同じ憲法観を共有していることにあらためて驚く。改憲派と護憲派の関係はコインの裏表ではないのか。
護憲派は、自分たちの理想が憲法になっているので今更「私の理想を憲法に」とならない。とはいっても彼らも、憲法が理想の表現であると思っている点で、改憲派と一致する。憲法条項が法規であるという意識も、また理想やイデオロギーや宗教が異なる人々が同じ国家のなかで共存するために憲法が存在するという意識も乏しい。例えば、「9条は日本に住む人々が一つにまとまる象徴だ」(奥平康弘呼びかけ人)。
敗戦によってはじまった時代が今も継続していて、憲法はこの時代精神であり、時代と憲法が連結して切り離すことができないという考え方も両者に共通する。護憲派の彼らは、憲法を変えると「援助交際」がなくなるとはいわないが、その代わりに日本が別の時代、「戦争をする国」になってしまうと警告する。例えば「もし戦争を望まなければ、軽々しく9条を廃棄してはならない」(加藤周一呼びかけ人)。
また自民党の政治家は憲法に日本人としての誇りを感じたいという。憲法は護憲派にとっても「お国自慢」の対象らしく「九条は日本の宝。21世紀の世界に広げよう」ということになる。改憲派に「現憲法が美しい日本語でない」ことを難じる人がいると思っていると、護憲派に現憲法が「新しい国家の民主主義と平和主義の秩序をつくり上げることを願っていた」当時の国民の願望の表現であるだけでなく、新たな「文体」をもたらしたという人がいる(作家の大江健三郎呼びかけ人)。
■どうしたらいいのか
今まで日本で憲法が改正されなかったのは、時代とその時代精神の反映である憲法が連結していて切り離すことができないとみなす私たちの憲法観のためである。このために、憲法を変える試みは時代を変えることで「世直し運動」になってしまう。
1945年以降の時代と、戦争をして最後に破局をもたらしたその前の時代(=「戦前」)と比べて、圧倒的に大多数の日本人は前者を後者よりよい時代であると思ってきた。この「よい時代」が現憲法と連結している以上、憲法を変えようしなかったのもごく自然の成り行きである。
ということは、護憲派が戦後長い間「よい時代」を人質に取ることができたことになる。その結果、「もし戦争を望まなければ、軽々しく9条を廃棄してはならない」というセリフが効果を発揮できて、改憲派の世直し運動に抵抗できた。世代交代で前の時代と比べなくなったり、また他の理由から、例えば経済的に行き詰まったために「よい時代」と感じる人ばかりでなくなったらどうするのだろうか。「われらの時代」は終わったでは本当は済まないのではないのだろうか。
憲法が法規でありルールであるべきと考える立場をとるなら、憲法というルールが順守される体制を守ることこそ憲法を守ることで、それが「護憲」である。従うことができなかったり、従わさせることができなかったりするルールがあるならば、廃止するか変えるしかない。そうしないで置くと法規が従われるべきルールでなくなり、飾り物になってしまう。この状態こそ一番避けるべきことであり、そのために憲法条項も必要があれば改正にされるべきと、私には長い間思われた。
ところが、現在憲法改正に賛成かと問われたら私は賛成できない。その理由を今から挙げる。
ここまで述べたことからわかるように、改憲派にも護憲派にも憲法が法規である意識が希薄である。そのために、憲法を変えることは法規の変更でなく「世直し運動」である。次に財政赤字にしろ少子化高齢化社会にしろ、日本が現在直面している問題は憲法と無関係で、憲法をいじることで解決できるようにいうのは幻想に過ぎない。
ということは、「改憲」にしろ「創憲」にしろ掛け声だけの「世直し運動」で、すでに述べたように政治の代わりで象徴的行為である。メディアは話題ができるのでよろこぶかもしれないが、日本国民は政治家に実質的な問題解決を要求するべきである。
次の反対理由は国際環境と関係がある。冷戦時代に九条を改正するのだったらは、私は賛成し歓迎したと思う。当時東西の対立で日本は軍事的にも政治的にも西側陣営に組み込まれていたので、九条の改正は現実の追認に過ぎなかった。当時のソ連も中国も、抗議したかもしれないが、どこか当然のことと受け入れたと思われる。
ところが、現在東アジアの国際関係は冷戦時代のように安定しているとはいえない。九条改正は波紋を投げかけるような気がする。極端な貧富の格差や歴然とした不公正などいった厄介な社会問題をかかえる中国の政治指導書が、国民の不満を外に向けるためにナショナリズムを利用するのはどこか仕方がない。また日本のほうが少しぐらいはナショナリスティックに反応するのは避けられないし、相手国も少しよろこんでいるかもしれない。でもこの相互のナショナリズムの「火遊び」でも、私たちは相手国がはるかに深刻な問題に直面していることを考慮するべきである。
私には、東アジアで必要以上に緊張を高めないためにも九条は改正しないほうがよいように思われる。というのは、中国との緊張が高まると日本は米国に「すり寄る」しかなくなり、これは自ら外交的選択の幅を狭くすることである。このように考えると、今まで骨折って解釈で間に合わせて来た憲法を改正するメリットはない。