生涯、日本の価格と闘った中内功さん
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
ダイエーの中内功さんが19日亡くなった。遅ればせながら評伝を書きたいと思う。
筆者が知っている中内さんは90年代の価格破壊の中にあった。1985年のプラザ合意以降、日本の円がどんどん高くなり日本から世界への輸出が難しくなっていった。一方で、輸入品の価格は一向に下がらなかった。円高がもたらすはずの消費者への恩恵がない。政策的な円高が求めていたはずの構造改革が進んでいなかったということだ。
中内さんはこのことに怒った。ダイエーは価格を50%下げるといった。スーパーの売り上げは毎月落ち込んだ。量は増えてもその先から末端価格が下がるから売り上げが増えるはずがない。売上高が落ち込むことは企業にとって利益を生み出しにくくすることだ。当時すでにダイエーは困っていたのだろうが、意に介していないようにみえた。中内さんは毎月、流通クラブにやってきてわれわれと昼食をともにしながら語った。
「消費者物価が下がれば、国民の生活レベルは上がるのだ」。そう繰り返した。右肩上がりの経済しか念頭になかった当時の新聞記者たちにどれほど思いが伝わったかどうか、分からないが「ダイエーが率先して日本の価格体系を破壊する」という意気込みが伝わっていた。
価格破壊の思いは流通業界に共通していたから、マスコミは流通業界のリーダーたちを新しい時代の担い手として持ち上げた。ビールや化粧品の格安店が区々に出現してメーカーの価格拘束と闘っていた。1989年の消費税の導入では流通業界が反対勢力の先鋒を担っていたから彼らはそのままマスコミでの登壇が続いた。
その中で生まれたのは「西友消費者物価」だった。流通業界が政府の消費者物価にかみついたのだ。「政府の調査では毎月同じ店で同じ商品の価格を調査しているが、消費者はもはや百貨店でスーツは買わない。アオキとか青山で買うでしょ。消費者が購入している物価は半分に落ちているのに政府統計にはそのことが反映されていない」。
われわれは中内さんたちの主張が正しいと思った。「だったらどこかで物価指数を計算してよ。みんな掲載するから」というわれわれの要求を当時西友の専務だった坂本春生さんが受けた。東京商工会議所ビルのエレベーター前で決まった。流通業界のスピード感が心地よかった。
なにしろ1993年の夏には自民党支配が崩壊し細川内閣が成立していたから、世の中は何かが変わるという期待感に充ち満ちていた。
コンビニで弁当を売り始めたのはセブン―イレブンなのかローソンなのか忘れたが、中内さんとの月一回の会食はいつもローソン弁当だった。コンビニ弁当の存在を宣伝したかったのかもしれない。
それまで弁当は家でつくるもので「買う」ものではなかった。その結果、外食ではない「中昼」という概念が生まれた。外食産業が低価格メニューを相次いで導入するのはこの「コンビニ弁当」への対抗策だったことを忘れてはならない。付け加えればダイエー系のフォルクスというステーキハウスでは1000円を切るステーキランチも売り出した。
ダイエーの価格破壊の究極は、ベルギー企業と提携して128円という缶ビール「ベルゲンブロイ」を輸入販売したことだった。1993年のことである。350ミリリットル入り缶ビールが225円だった。ビール各社は「80数円のビール税を払うと赤字のはずだ」と開き直ったが、低価格ビールを生み出す契機はダイエーの128円ビールにあったのだと今でも思っている。この「ベルゲンブロイ」はその後ビール各社が売り出した発泡酒に押されて存在感をなくしたが、価格破壊の象徴として一時代を画した。
日本ではいまだに構造改革が選挙の争点となっている。プラザ合意から数えると20年になろうとしている。いかに抵抗勢力が強いかが分かる。価格体系から給与体系にいたるまで日本は1ドル=100円時代に生きるための体質改善を余儀なくされていたのだが、いまだにその重要性が十二分に認識されていない。それはきっと日本経済における「官」の領域が大きすぎることに由来するのだとずっと思っている。
なにしろ20年前といえば、筆者が共同通信本社の経済部記者としてデビューした年である。プラザ合意の意味も分からぬままに始まった経済記者が現場取材の年齢を終えて、デスクとなり、さらに整理マン、管理職としての支局長になる長ーい年月を経ていることを思えば、なんとも情けない気分にさせられる。
その昔、中内さんはかの松下幸之助時代の松下電器産業と全面戦争をしたことがある。ダイエーの安値販売に松下が「出荷停止」で報復、中内さんは逆に松下製品を店頭から排除した。そのころの中内さんは「たかがスーパーの店主」だったが、大松下と渡り合うその姿勢には「任侠道」に通ずるものがあった。
常に消費者側にいようとする姿勢は阪神大地震でも現れた。村山首相が「自衛隊の派遣には知事の要請が必要」とまごまごしている最中に、中内さんはその日のうちにヘリコプターで多くの食料品と救援物資を運んでいた。また東京-高知を運航していたフェリー「サンフラワー」は真っ先にダイエーにチャーターされて、救難物資を運ぶとともに神戸沖の船上救援拠点として活躍した。
当時、農水省を担当していた筆者らは、大震災の午後、農水省が発表した炊き出しに怒り心頭に達していた。地震発生から12時間ほど経っていた時点で「おにぎり500個」というなんとも現実離れした“支援策”を打ち出したのだった。「中内さんが首相だったら」。当時の記者クラブの誰もが思ったことだった。
その後、ダイエーは2兆6000億円という巨大な借入金が経営の重荷となり、中内さんはダイエーのすべてを失うことになる。成功者の人生の必ず功罪が問われるが、中内さんが日本の消費者に残したものはまだまだ大きく輝いている。合掌。