日本生協連合会シンポジウムでの講演 2009年11月30日

 国際平和協会の伴です。献身100年事業の広報委員長もやっています。3年ほど前に東京と神戸にプロジェクトが立ち上がり、シンポジウム、講演会、映画上映会、パネル展、出版など計画した。始まってみると意外な展開が起きた。二つのプロジェクトが触媒のような働きをなし、運動が多面的に拡大した。徳島、奈良と独自の取り組みが動き出し、千葉大学、神戸大学との連携が生まれた。元々、生協はプロジェクトの中核を担っていたが、各県に広がった。40都府県に浸透している。それから労働組合、共済関係、農協も加わった。もちろんキリスト教会、クリスチャン系の学校も外せない。
 賀川を顕彰することも大切だ。100年記念事業で重要なのはネットワークの形成。賀川を出発点とした団体がばらばらに発展してきた。今回の企画を通じて自然発生的に生まれるネットワークが何をするかだ。つまり一人ひとりの実践が求められるということだ。
 賀川豊彦から学んだものがたくさんある。
 一つは、北欧のような生き方だ。一等国にならなくてもいいという考えで、内村鑑三が「デンマルク国」で描く世界である。
 二つ目は、脱政府依存。賀川が生きた時代は今のような社会保障制度はほとんど存在しなかったから、自らが互いに助け合う仕組みを編み出す必要があった。そして賀川はそれを実現しようとした。現在に生きるわれわれは、とかく行政に甘えがち。というより行政側も行き過ぎた、お節介が多すぎると感じないか。
 三つめは、think kagawaである。賀川は、世界経済の再構築に、協同組合的生き方が不可欠だと考えた。「一人一票」は民主主義に通じる。議決権は株数ではなく、あくまで一人一票だ。そして「配当は購買高に応じる」という富の分配方式。ここでも株数による支配は存在しない。
 山下俊史日生協会長が「見えていない現実、みたくない現実を直視して行動を起こせ」と提起した。現在の世界は三つの危機に直面している。経済の危機、そしてエネルギーの危機、環境の危機。
 そんな中で、賀川督明さんが「痛みによりそう」と言い出した。そして「万人が一人のために」は具体的に見えないという。組合員が一人のためにやってくれるだろうと考えがちだが、そうではない。
 29日 千葉大学公共哲学センターなど主催のシンポジウム「友愛政治の理念とその可能性ーコミュニティをつなぐもの」に参加して、少しばかり「協同組合と国際平和」について話をした。
 賀川豊の職業は牧師である。牧師でありながら貧困と平和の問題に立ち向かった。その凄みは神戸の貧民窟に住みながら、脱貧困に向けて思索し行動したところで、誰にもまねのできない70年余の人生を送った。
 意外にも賀川の関心は経済にあった。
 貧困の問題も戦争も経済のあり方に起因すると考えた。
 貧困は資本主義の富の偏在がもたらしたものなんのだ。戦争は国境を越えた富の偏在に加えて、資源の争奪によってもたらされた。
 賀川は資本主義のそのようなあり方を根本から改革しないと貧困は根絶せず、平和ももたらされないと考えた。
 ならば、社会主義はどうだろうか。賀川が活躍した1920ー30年代、ソ連が誕生し計画経済の名の下に経済的にも大きく飛躍した。しかし、賀川は暴力革命を否定した。また計画経済は「所有」を否定するだけでなく「上から」の強制する改革だと嫌った。
 人間がそもそももっているはずのキリスト教的な兄弟愛を基礎とした経済が必要だと考えた。それは友愛であり、協同組合である。
 賀川の協同組合には強烈な「自助と共助」の思想がある。つまり政府に依存しない。私的所有を否定する一方で、所有という概念は大切にする。一見矛盾しているが、農村の「里山」的所有形態を大切にしようと訴えた。ここからこっちが僕のもので、向こう側は君のものという明確な所有概念はたぶん近代国家形成の過程で生まれた。賀川はそういう明確な定義をあまり好まなかった。
 もちろん富の偏在も認めない。
 協同組合の富の分配には一定の法則がある。ロッチデール原則である。利益の分配についてまず、購買量に応じた分配があり、教育への投資が不可欠とされた。その後に配当があった。
 話を貧困に戻そう。繰り返すが賀川は貧困がなくなれば平和がもたらされると考えた。不思議なことにこの60年間、先進国同士の戦争は一切ない。貧しい国同士が戦争を繰り返し、殺戮を繰り返してきた。
 貧困をなくすために賀川が考えたのが協同組合的経営だった。賀川は七つの協同組合を提唱した。購買組合、生産組合、信用組合、共済組合、医療組合までつくった。世界で医療まで協同組合でやっている例はほとんどない。
 衣食住を安定するために購買組合が必要だと考え、大阪に共益社とつくり、神戸に神戸購買組合と灘購買組合とつくった。ロッチデールにならったものだ。関東大震災の後には江東購買組合、大学生協も立ち上げた。コープこうべと大学生協はいまも生き続けている。
 賀川は働く場所を確保するために神戸に歯ブラシ工場をつくった。貧困から脱却するためには「雇用」が必要だと考えたからである。セルロイドの棒に豚の毛を差し込む簡単な作業だと思われたが、まず衛生でなければならなかったし、販路を確保せずに歯ブラシをつくり始めたから在庫の山となった。この事業は早々と失敗に終わった。
 雇用の確保という命題は実現が難しかった。農村に工場をつくれば、農家の次男、三男は都会に出て働かなくてすむ。賀川はずっとそのことを考え続け、夢は戦後ようやくかなえらる。埼玉県にあった陸軍の精密工場跡を借りて時計会社を設立する。農村時計製作所といった。戦後の混乱期だったから事業はすぐに資金難に陥り倒産するものの、事業継承者があらわれ、リズム時計として再生し現在に到っている。
 後で述べるがスペインのバスクのモンドラゴンにその精神が継承されている。
 金融のための信用組合もあった。元々はドイツのライファイゼンに由来する考えであった。貧しい農民に少額のお金を融資をすることで生活を安定させる役割を果たした。賀川は関東大震災の後に中ノ郷質庫信用組合を結成し、生活にあえぐ震災後の人々にお金を貸した。おもしろいのは鍋や釜を質草として認めたことで、貧しい人々から信頼される数少ない信用組合として発展した。
 バングラデシュのモハマド・ユヌスさんによって注目されているマイクロクレジットはまさに賀川の精神が時空を越えて同国で発展したとしか考えられない。
 けがや病気のための暮らしのセーフティーネット面では共済を導入した。かつての農村経済の時代に各地域に結や講という仕組みがあった。これに近い考え方である。健在の健康保険や失業保険も賀川の行政への働きかけに負うところが大きいということも覚えておいてほしい。
 ユヌスさんはマイクロクレジットによってノーベル平和賞を受賞したが、この事業はバングラデシュではグラミン銀行という全国規模の組織となり国内に4000以上の支店を抱え、途上国だけでなく先進国でもユヌスさんにならってマイクロクレジットという概念が広がっている。
 モンドラゴンの話はおもしろい。最近知ったばかりで詳しく知らなくて恐縮だが、スペインのピレネー山脈周辺にあるバスクの小さな町の名前である。アリスメンディアリエタという神父が戦後に雇用を作り出すために始めた生産協同組合だった。
 アリスメンディアリエタはまず教育から始めた。町の有能が学生を工業高校で学ばせ、さらに大学にやった。学生たちは卒業後に町に戻って組み立て工場を立ち上げた。フランスの有名な石油ストーブであるアラジンの製品をまねるところから始まり、ファゴールグループという家電メーカーをつくった。家電メーカーとしてのファゴールはスペインでの冷蔵庫市場の90%を占める大企業にまで発展している。生産協同組合の数少ない成功例といえよう。
 実はロバート・オーエンという人は200年前にこれらをすべてニューラナークの自分の工場で実験していた。工場に購買部を設け、その利益で学校を経営した。当時は、生業は自ら起こすものだったし、義務教育はおろk公立の学校もない時代である。当たり前といえば当たり前だが、われわれは自ら雇用を創出する努力を忘れているのではないだろうか。
 サラリーマン街で弁当を売っている人は偉いと思うが、考えようによってはサラリーマンより多くを稼ぐことができるかもしれないのだ。500円の弁当を100個売れば5万円である。おいしいと評判を得て200個売れればなんと10万円の売り上げである。
 キーワードは「脱政府依存」である。自立する。一人でできなければ仲間を集って協同する。助け合うことで一人ではできなかったことが可能になる。10人集まり、100人集まれば大きな展望が開けるかもしれないのだ。賀川の教えはそんなところにあるのだと思う。