ウガンダより日本を考える-「自分」
2008年01月30日(水)UgandaMoyo通信員 伴 正海
コラムやブログなどで「伴さんは文系向きなのでは」「どういう経緯でウガンダにいるのか」などと言った筆者自身について尋ねられることが度々あった。最初は自分を語るなんてという思いでいたのだが、この地にすっかり慣れ親しんできた頃から自分について考えるようになってきた。そして母親より送ってもらった遠藤周作の「深い河」をこの地で読みなおし、著者の高校時代を支えてくれたこの遠藤周作の作品からさらに深く「自分」というものを考えるに至った。
これを契機とし、筆者について過去や考え方について書いてみたいと思う。
物心付いた時から父方の祖父を「先生」と読んでいた。普通の人が持つような「おじいちゃん」という親しみは恐らく持っておらず、唯ひたすらに「先生」を尊敬していた。そういう育てられ方をしたのかもしれない。当然「将来なりたい職業は?」と聞かれると先生と同じく「弁護士と外交官」と答える小学生になっていた。
一時期、「人生ゲーム」という盤ゲームのやり過ぎか、弁護士と同じく稼ぎの良かった医師という職業にも憧れたが、血が怖くてやめてしまった。そのまま中学、高校と進み、それでもまだ「弁護士と外交官」、「もちろん大学は東大」と考えていた。
また、中学1年生の時にNHKのドキュメント番組でタイの貧しい大家族が月6000円で生活しているということを知った。当時の自分の小遣いは周りからすれば破格の6000円という金額であった。奇しくもこの「6000円」というぴったり同じ金額が頭から離れず、「ぼくが使っているこのお小遣いでタイでは大家族が生活できるのか。」と何とも言いようのない違和感が自分の中に煙のように立ち込めて離れず、その自分たちと途上国との差というものを意識し始めるようになった。
さらには「先生が青年海外協力隊を作った」という事実も自分にとっては途上国に目を向けずにはいられないことであった。そしていつしか、発展途上国のために何かをするんだという想いが強くなっていった。
その後、高校2年生の時に先生が亡くなった。世田谷の自宅におり、夜7時か8時頃に高知の祖母から電話で危篤を知らされた。何を思ったか、何を考えたかは覚えていない。ただリビングから2階の自分の部屋へと向かい、急いで荷物をまとめ、バス会社に連絡をして高松行きのバスを確保、母親や弟たちを置いて家を出て行った。
この時ほど電車の乗り換え時間が鬱陶しく煩わしく思ったことはなかった。ホームを走り、階段を走り、エスカレーターを走り、途中鞄を通行人にぶつけて文句を言われながらもそれを全て後ろに置き去りにして走った。バスは出発時刻を過ぎていたが待っていてくれた。それに飛び乗り、眠ってしまった。
次の日の早朝、高松に着き、朝一の電車で高知に向かった。高知駅からタクシーに乗り、病院の名前を告げると運転手に「新しいお医者さんかい?」と尋ねられた。今思うとこれも予言のようなものだったのかもしれない。さらにこの運転手が先生の名前を知っていたことも先生への尊敬が一層増されることとなった。
病室に駆け込むと京都勤務だった父親が一足先に到着しており、その前にはチューブにつながれた先生の身体が横たわっていた。父親がその耳元で「正海ですよ、正海が来てくれましたよ。」と話しかけると、その瞼を重そうにゆっくりと開けて先生の目がぼくを認識し、「おー」とだけ言ってぼくの手をとってくれた。その顔は笑顔だった。ただ、それが最期だった。
あとはひたすら心電図がフラットになるのを待つばかり。次の日の最期の時も、叩いてさすって痛みを感じさせればまた眼を開いてくれるかもしれない。そう思ってその身体を刺激し続けたが、父親に制されて素直にその手を止めた。心のどこかでは分かっていたのかもしれない。この時、目の前にいながらにして何もできなかった自分への無力感から、医師という職業を意識し始めるようになった。
それからというもの、何故か自分は「自己の存在」ということを考え続けるようになっていた。デカルトなどを読んだりもしたが、「思考する自分のみが確実に存在する」とする考え方は納得できるものの自分には物足りないものであった。そしてある日、シャワーを浴びている時にふと気が付いた。
「人間と言うのは関係性の中に生きており、自己はその中で存在しうるものなのではないか。」
そこからは芋づる式に考えが広がっていった。自己というものは他者によって存在を認められ、また他者を認めることで存在させると考えたのだ。そうなるとその他者との結び付きが強ければ強いほど自己の存在は盤石なものになるのだ。
そう考えた時、医師という職業が多くの患者との結びつきによって、しかも生命というものを取り扱って関わる時、その存在というのはかなり強固なものになるのではないだろうかと思った。 「自己満足」という言葉があるが、自分はそれを「他者によってその存在を認めてもらうことで得る自分の存在に対する満足」であると考えている。
また、途上国に対して何かをしようと思った時にいくつかの段階があるとも考えた。まずは募金などの国内にいてできる最小限の活動。そしてその募金などを主体的に行なう活動。さらには実際に現地でその資金を使って行なう活動である。その中で、実際現地に行った時に目の前で病人怪我人がいたとして、自分には何も出来ないことが嫌だった。そのことも医師を後押しする考え方であった。いずれにせよ、その根底には「途上国のために」という思いがあった。
さらには遠藤周作という作家にも出会った。高校3年生の現代文の授業で「沈黙」の一節を扱いクラスで議論していた時、ふとこの作品を全部読んでみたくなった。授業のおかげでかなり深い理解を持ったまま読み始めたのですんなりと読み進めることができた。
そしてそれ以来遠藤周作の作品を読み続けるようになり、「日本人とは何か」「神とは何か」というテーマに興味が湧いてきた。それら作品の中で遠藤周作は日本人にとって(アジア人もかもしれないが)神というのはキリスト教のような合理的にしっかりと出来上がったものではなく、人々の心の中に存在する多様なものではないかというようなことを書いている。
このことは上記したような自己の存在に話がつながるのである。すなわち、自己の存在を認めてくれる他者の中にこの神も含まれているのだ。高校時代、日本で自殺が多い理由についての話を聞いたことがあり、日本人には「家族」「職場や学校」「地域社会」という3つの柱がその存在を支えてくれていたが、「地域社会」はほぼ崩壊し、「職場や学校」でいじめや仕事の失敗などで不安定になると残るは「家族」のみとなる。
ただその時に「家族」すら自分を支えてくれていないと「自分」という存在の置き場所が分からなくなって自殺に走るのだという。しかしながら欧米ではその他に「神」という大きな柱、おそらくいつまでも見捨てない柱があるのだ。それは自分が信じてさえいればいつまでもそこにいてくれるものである。なんとも全てがうまく合致していることか。
これらのような考えによって自分の存在というものがより明確になり、自分の存在というものがかなり強固なものであるという認識ができ、その中で医師として途上国に関われることの利の大きさを意識するようになった。
無事一浪で医学部に入ることができ、将来は途上国で働くぞと決めていたものの色々と勉強を進めるにつれて視野も広がってきた。最近では公衆衛生という分野に興味を持ち、保健衛生医療のフィールドで途上国に対して何かを行おうとWHO(世界保健機関)なども将来の候補に入りつつある。
その将来のため、一度はアフリカ現地での医療活動というものと共に現地生活というものを経験しておきたくウガンダにやってきた。医師になってから行った方が良いのではないかという意見も数多くいただいたが、医師になって行くということは現地では即戦力であり、現地の生活に慣れようと奮闘したりしている暇はおそらく無いのだ。
現にこのNGOでも遠くの地方から来ているスタッフはおそらく自分以上に慣れてはいないのではないかと思わせるところもある。父親に「学生という身分を最大限に活用するよう」言われたことも一因かもしれないが、とりあえず学生のうちにこういうことは経験しておいたほうがいざ医師になって来てみて「何かが違う」と悔やんでも時既に遅しとなってしまうと考えた。
そして実際にここに来てみて、来る前の考え方とは同じではなくなったのだ。今はそれをまだ整理しきれずにおり、これからもっともっと考えを蓄積してから総括したほうがいいと思っている。むしろこの機会が始まりなのだと考えるようになっている。
長くなったが、簡単に今までの経緯と今の自分に影響を与えてきたものを少しではあるがご紹介させていただいた。
伴 正海にメールは mailto:umi0625@yorozubp.com